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闇に咲く花~王を愛した少年~

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 氷の針を含んだような沈黙が膚に突き刺さるようだ。場を持て余しかねて、誠恵は小卓の上の盃を手にした。黙って差し出すと、尚善もまたそれに応じる。
 徳利を掲げ、盃を満たす誠恵の顔を意味ありげに眺めながら、おもむろに尚善が口を開いた。
「そなたは先刻、嬉しいことを言って私を歓ばせてくれたが、現実は変えられぬ。私はもう五十だ。あと幾年生き存えられるか判らぬ。歳を取ると、色々なことを考え、要らざる取り越し苦労までする羽目になる。殊に気になるのは、自分が死んだ後のことだ」
 再び沈黙がひろがった。重い静けさに押し潰されたかのように、蝋燭の焔が大きく揺れ、突如として消える。
 不意に、尚善が立ち上がった。何を思ったか、部屋を大股で横切り、表通りに面した窓を開け放った。既に深夜を回り、賑やかな往来にも人影はなかった。この界隈は概ね似たような妓楼がひしめき合っているが、遊女や客も深い眠りに沈んでいる刻限だ。
 宵には遊女と甘い一夜の夢を見ようとやって来る男たちと逆に男を誘う女たちの嬌声が響き渡り、実に生き生きと活気づく。静まり返った道は、そういた喧騒が嘘のように、しんとして、まるで色町そのものが廃墟と化したかのようだ。
 尚善は食い入るように闇を見つめながら想いに耽っている。殊に、今宵は月もない淋しい闇夜であった。
 不意に尚善が酒をひと息に煽り、空になった盃を深い闇の向こうに放り投げた。盃は垂れ込めた闇に吸い込まれ、地面に落ちる乾いた音が聞こえる。
「そなたが今し方、見たものが何であるか教えてやろう」
 尚善が抑揚のない声で囁くように言った。
「あれは殺生簿だ」
「―!」
 刹那、誠恵は息を呑む。見たときからおおよその見当はつけていたものの、こうして実際に我が耳で聞くと、それは実に禍々しい響きを持って誠恵の心に深々と突き刺さる。
 薄っぺらな本には、たった二人の名前しか記されてはいなかった。つまり、この男がその二人をこの世から抹殺したいと願っているということだ。
 五月の初めとはいえ、夜はまだまだ冷える。冷気が流れ込んできた室内はやけに温度が下がったように思え、誠恵は自分でも知らぬ中に身震いした。
 尚善が窓を元どおりに閉め、傍に戻ってきた。客用にしつらえられた華やかな鶯色の座椅子にゆったりと腰を下ろし、おもむろに背後を振り返る。その視線を辿ると、小机の上に飾られた大ぶりの花器が眼に入った。大輪の黄薔薇が数本投げ入れられていて、夜目にも鮮やかだ。尚善の背後に置かれている屏風が墨絵の蓮であるだけに、花の派手やかさがよりいっそう際立っている。
「美しいものには棘があるとは、よく言ったものだ」
 尚善はひとり言のように呟き、さり気ない仕種で青磁の壺から一輪を抜き取った。
 まるで恋する男が愛する女に捧げるかのような恭しい手つきで、その薔薇を誠恵に差し出して寄越す。
 誠恵は知らず手を伸ばしていた。
「暗闇に艶(あで)やかに咲き誇る花となり、その色香で若き国王を虜にし、意のままに操るのだ。そして生命を奪え。そなたの標的は国王だけだ。左議政の始末は私が引き受ける」
「国王(チユサン)殿下(チヨナー)を弑(しい)し奉れとおっしゃるのか?」
 国王は朝鮮の民にとって至高の存在だ。しかも現国王光宗はまだ十九歳の若き王ながら、早くも聖(ソン)君(グン)としての呼び声も高く、民を思う心優しく賢明な青年だという。実際のところ、先代の永宗(エンジヨン)の御世よりも光宗の代になってからというもの、国情は穏やかで民心も安定していた。
 誠恵の住まう都から離れた鄙びた小さな農村ですら、聖君として崇められる光宗の名声は轟き渡っていた。永宗のときは日照りが続いて秋の収穫がなかった年ですら、例年どおりの年貢を納めなければならなかったのに、光宗の即位後、そんなことはなくなった。今は飢饉になれば、逆に国が国庫を開き、飢えた民に粥をふるまってくれる。それもすべては国王(チユサン)殿下(チヨナー)のお優しい御心の賜(たまもの)だと民たちは皆、涙を流して宮殿に向かって手を合わせたほどだ。
 もっとも、七年前、兄王の突然の崩御に見舞われた時、光宗はわずか十四歳の若さであった。光宗の生母、仁彰王后は光宗が四歳のときに亡くなっていたため、光宗にとっては義母に当たる大王(テーワン)大妃(テービ)(先々代つまり永宗・光宗の父仲宗の継妃、実子はいない)が垂簾(すいれん)の政(まつりごと)を行い、光宗が十六歳になるのを待って親政が始まった。
 ゆえに、本当の意味で光宗の治世になって、まだ日は浅い。それでも、優れた為政者としての資質を生まれながらに持つ光宗を聖君として慕う民は朝鮮中に溢れている。
 若き王の下、この国は今、まさに最盛期を迎えようとしていることは誰の眼にも明白だ。
 そんな王を何故、殺す必要があるというのだろう?
「愚かで無能な民たちは何も知らぬくせに、世論に躍らされる。先代の永宗さまも今の国王に劣らぬ優れたお方であられた。あのように突如として病に倒れられるとは、さぞやご無念であられたに違いない」
 光宗が親政を始めたときに、真っ先に掲げた目標が民の負担を少しでも軽減することであったという。国王自らが華美贅沢を慎み、大臣を初めとする両班たちにもそれを命じた。
 だが、先の永宗のときは、どうだっただろう。一部の特権階級だけが利を貪り、国王や両班たちは民の困窮を知ろうともせず、日夜、享楽に耽った。自分たちの口にするすべてのものが民の血と涙の産物であることを考えもせず、ひたすら搾取しようとしたのだ。その結果、民心は大いに乱れ、民からは王や大臣に対する怨嗟の声がひきもきらなかった。
 今や暗雲垂れ込めた時代は過ぎ去り、漸くこの国にも穏やかな春が訪れたのだ。光宗はその慈悲の心と卓越した政治力で朝鮮という国を照らす太陽に他ならなかった。その太陽をこの男は消せというのか。
「先代の永宗さまは、私の娘聟に当たる方だった。今の東宮は、娘の生んだ孫だ」
 誠恵は思わず尚善を凝視した。
 領議政はこの国では最高位の官職で、朝廷の頂点に立つ重い立場だ。更に、この男の娘は先代永宗の王妃であり、今は大妃(テービ)と呼ばれる尊い身分にある。そして、彼の外孫が世子(セジヤ)の座についている―。
 それだけで、誠恵は尚善が光宗を殺す理由を察した。
「美しき花は棘を持つ。その棘には猛毒が潜んでいよう。この上なく甘美で、ひとたび刺されれば、二度と目ざめぬほど甘美な猛毒がな」
 尚善が低い声で言った。
「断る。朝鮮中の民が聖君として慕う賢明な国王を殺すだけの理由がない」
 誠恵が突っぱねると、尚善がニヤリと口許を歪めた。
 こうした笑みを浮かべると、彼の本来持つ冷酷な一面が強調されるようで、凄みがあった。思わずゾワリと、膚が粟立つ。
「そなたは断れぬ。秘密を知ったそなたが消されるだけではない、そなたの生命よりも大切な家族がどうなるか、考えたことはあるのか?」
「卑怯な! 家族の生命を楯にして、私に言うことをきかせるつもりか」
 誠恵が怒りに瞳をぎらつかせて怒鳴ると、尚善は穏やかな笑みを返してきた。たった今の酷薄さは瞬時に消えている。だが、これが上辺だけのものだと誠恵は既に知っている。