天つみ空に・其の四~春の日~
「これは、お客から頂いたものではありんせん。あちきが太夫になって、初めて自分で買った品でありんす。嫌でなければ、どうか遠慮なく受け取っておくんなまし」
客から贈られたものでは、お逸が不快に思うかもしれないと考えたのだろう。いかにも松風らしい心配りであった。松風のこのようなところが客には好まれる。こういった気働きは残念ながら、東雲にはない。
「それでは、花魁にとっては大切な想い出のお品ではございませんか。お輿入れ先にお持ちになられた方がよろしいのでは?」
遠慮がちに言うと、松風は微笑んだ。
「気にすることはありんせん。お前がいやではないと言うのなら、あちきという女がこの見世にいたという記念に持ちなんし。あちきは、これが大切な想い出の品だからこそ、お前に持っていて欲しいなんす」
「花魁―」
お逸は胸が熱くなった。松風が差し出した笄を両手で押し頂き、受け取った。
「ありがとうございます。大切にします」
改めて頭を下げると、松風がすかさず言った。
「他に何か欲しいものがあれば、言いなんし。小袖でも打掛でも、帯でも。何なりと望むものを持っていきなんしたら良いでありんすよ」
松風の言葉に、お逸は首を振る。
「いいえ、花魁。私はもう、これで十分です。この立派な笄だけでも過分だと思うのに、これ以上何かを頂くなんて」
「あれあれ。お逸ちゃんの欲のないこと。あちき付きの禿や振新は、そう言ってやれば、眼の色変えて、あれ欲し、これ欲しとねだるでありんすに」
お逸は微笑んだ。
「花魁、ご無礼を承知で申し上げますが、私は花魁を姉さんのようにお慕いしておりました。短い間でしたけれど、花魁のような類稀なお方のお側にお仕えして、可愛がって頂けたことは本当に幸せなことだったと思っています。どうか、廓をお出になって三船屋のお内儀さんにおなりになっても、ますますのお幸せを―心よりお祈り申し上げております」
「何とまあ、嬉しいことを言うてくれなんすね、この子は」
松風の眼に光るものがある。
その涙を見、お逸もまた胸に迫るものがあった。泣き顔を見られたくないためか、松風がつと顔を背けた。眼を伏せて障子窓を見詰める松風の横顔を穏やかな春光が照らしている。その美しい面には先刻の華やぎは微塵もなく、常よりも更に濃い憂愁がふちどっていた。
そのあまりにも淋しげな顔を見ている中に、お逸はつい口に出していた。
「花魁、良いんですか?」
―惚れたお人のことを忘れて、好きでもない男の許へ行っても良いんですか。
次に続く科白を辛うじて呑み込む。
呑み込んだ科白は重い塊となって、お逸の胸につかえた。
しかし、松風が三船屋新左衛門のことをどう思っているかまで、お逸が知る由はない。従って、こんなことにお逸ごときが口を挟む筋合いではないのだ。
なのに、花魁の横顔を覆う孤独の翳があまりにも深くて濃かったから。お逸は、どうしても言わずにはおれなかった。
松風がゆるゆるとお逸を見る。
いつもなら生き生きとした理知の光を湛える双眸が今は光を失っている。その力ない視線が所在なげに泳いだ。
「このまま、三船屋さんにお輿入れになっても、花魁は後悔はなさらないんですね?」
念を押すように訊ねると、松風がふっと笑んだ。何とも儚げな、花がひらひらと心ない風に散らされるような笑みだ。
「あちきは信八っつぁんのことを忘れたことはありいせん」
そこで小さな息を吐き、松風は真正面からお逸を見据えた。
先刻まで虚ろだった瞳にもう光が戻っている。口調もガラリと変わった。どうやら、本来の自分らしさを取り戻したようだ。
「恐らく、これからも忘れることはないだろう。でも、幾ら想っても信八っつぁんは、もうこの世の人じゃない。信八っつぁんに逢う愉しみは、あたしがこの世とおさらばする先の日まで取っておくことにしたんだよ。折角、女と生まれてきたからには、子どもも生んで育ててみたいしね。―もっとも、何度も堕胎した女の身体で、子を孕むことができるのかは判らないけど」
松風は笑った。
「―花魁」
お逸は痛ましげに松風を見詰め、改めて廓で生きる女の哀しくも苛酷な現実を思い知らされた。
「あたしが芳(よし)さん(三船屋の本名は芳造)の奥さんになろうって決めたのは、確かに好いた惚れたじゃない。でもね。あの人、あたしがあの人の子を流したって知った時、カンカンになって怒ったんだよ。女郎が父親も判らない子どもを生むことはできないんだ、女郎の子だなんて、生まれてくる子も可哀想なんだって幾ら言っても、判らないんだよ。普段なら男には判らないように上手く始末しちまうんだけど、そのときはたまたま体調が悪くってね。子どもを流した後、身体がなかなかうまく回復してくれなかったのさ。それで、問いつめられて、白状するしきゃなくなった。その時、芳さんがあたしにこう言ったのさ」
―なら、今度は元気な子を生め。俺が子どもの父親になってやるから、今度は俺の嫁さんになって堂々と子どもを生めば良い。
そう言い切った男の顔を見た時、松風の心は決まった。けして男前でもなく、赤銅色のいかつい貌はおよそ女にはモテそうにない。しかし、そう言ったときの新左衛門の眼は真摯だった。
「芳さんは良いお人だよ。何より本気であたしに惚れて下さってる。俺の子を生めば良いと真顔で言われた時、あたしは、なら、芳さんの、この人の子どもを生んでみようかなと、ふと考えたんだ。芳さんとなら、いつか心の通った夫婦になれるんじゃないかと思うよ。だから―、お逸ちゃん、心配してくれるのは嬉しいけれど、これは誰に強制されたわけでもない。あたしが自分で考えて選んだ道なんだ」
松風の毅然とした言葉には、いささかの迷いもない。お逸は、もう何も言うことはなかった。
自分で考えて選んだ道なのだ―。そう言い切ったときの松風の貌はこれまでにお逸が見た中でいっとう輝いて綺麗だった。
これぞ、まさに吉原が誇る太夫の心意気なのだと、傍で眺めるお逸までが誇らしくなった。
「松風太夫、どうか幾久しくお幸せでありますように」
お逸は松風から名残にと贈られた簪を握りしめ、深々と頭を下げた。
暦は変わって、弥生の声を聞いた早々、松風太夫は落籍(ひか)されて晴れて大門を出ていった。その日は大安吉日、花乃屋からも楼主の甚佐を筆頭に、やり手のおしが、若い衆までもが大門まで松風の門出を見送りにいった。
もちろん、お逸もその見送りの人々の中に混じっていた。あまり人眼には立ちたくはなかったけれど、やはり妹のように可愛がってくれた松風の門出は見送りたかったのだ。
見送りの人々に向かい、松風が丁寧に一礼する。少しの間、名残を惜しむかのように吉原全景を見つめた後、もう一度、楼主の甚佐に頭を垂れる。
大門の外には三船屋からの迎えの駕籠がよこされており、松風は直に駕籠の中の人となった。
駕籠かきの威勢の良い声と共に、松風の乗った駕籠が遠ざかってゆく。
七歳で禿となり花乃屋に入り、十五年の星霜を過ごした吉原。苦界と呼ばれる女にとっては地獄ともいえる吉原。そこを晴れて自由の身となって出る数少ない幸運な女の一人となった松風。その胸中を去来するものは何であったろうか―。
作品名:天つみ空に・其の四~春の日~ 作家名:東 めぐみ