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天つみ空に・其の四~春の日~

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 松風を見送るお逸は、次第に遠ざかる駕籠を眺めながら、そっと懐を押さえた。あの日、松風から餞別の笄を贈られた時、お逸は最後に花魁に頼んだのである。
 能書家としても通るほどの腕を持つ松風に是非、書いて欲しいものがあるのだと。
 初め、松風は愕いていたけれど、すぐに快諾してくれた。日頃から愛用する硯と筆を取り出して、松風がさらさらと薄様の美しい紙に書き付けたのは。

ひさかたの天つみ空に照る月の
  失せむ日にこそ 我が恋止まぬ 

 お逸の大好きな、あの歌だった。
 今、お逸は真吉がくれた梅のひと枝に松風の書いてくれた歌をこより状にして結びつけている。それが、お逸のお守り代わりのようなものだ。
 この歌を紙に書いた後、松風はお逸をぎゅっと抱きしめてくれた。
―何があっても、頑張るんだよ。その中にきっと良いことがあるから。
 あの日、お逸は、松風の良い匂いのする腕の中で涙を流した。歳は七つしか違わないけれど、松風が生後まもなく失った母のように思えたものだ。松風なら、きっと優しい良い母親になるだろう。お逸は、心優しい花魁が三船屋新左衛門の赤児を抱いている姿を容易に想像できた。
 懐深くにしまってあるそのお守りをそっと着物の上から押さえると、不思議と心が落ち着いてくる。
「とうとう行っちまいましたねえ」
 おしかがポツリと傍らで呟く。流石に十五年も手塩にかけて育てた花魁との別離は、胸にくるものがあるようだ。
 おしがの前にいた甚佐が肩をすくめた。
「あれほどの花魁はもう二度と、現れやしないだろう」
 甚佐の方は淡々としており、別段、花魁との名残を惜しんでいるようでもない。
「旦那、これから大変ですよ。いつまでも淋しがってるわけにもいきませんや。松風のいなくなっちまった分、東雲にもせいぜい気張って貰わないといけませんねえ」
 短い沈黙の後、甚佐がゆっくりと首を振る。
「いや、東雲一人では幾ら何でも、松風の抜けた穴を埋めることはできめえ」
「なら、また新しく禿を入れなけりゃアなりませんね。近々、出入りの女衒が来ることになっていますから、早速、ものになりそうな子を何人か入れましょう」
 先刻のしんみりとした口調はどこへやら、おしがの頭はもう次の段取りをあれこれと思い描いているようだ。しかし、やり手ともなれば、そうでなければ、大勢の娼妓を束ねることなぞできはしない。
「ああ、そうしてくれ。だが、禿が一人前になるのを待ってはいられまいよ。できるだけ早く、松風の抜けた分を補わなきゃならねえからな」
 ふいに、甚佐が太い首をねじ曲げるようにして、後ろを振り返った。刹那、甚佐の射貫くような眼が、お逸をじいっと見つめる。
 冷え冷えとしたまなざしは酷薄で、初めて花乃屋に来た日を思い出させた。あのときも甚佐はお逸を値踏みするような眼で見たのだ。
 だが、今の眼はあのときよりも更に容赦がない。まるで、お逸の着物を一枚一枚全部はぎ取り、その裸身を眺め回しているような遠慮のない視線である。
 ゾッとするようなその眼に、お逸の華奢な身体が戦慄(わなな)いた。
 甚佐はしばらくお逸を見つめていたかと思うと、直にプイと前に向いた。途端に張り詰めていた緊張が緩み、お逸は我知らず小さな息を吐いた。無意識の中に、例のお守り―松風の書いてくれた歌を結びつけた梅の枝を胸の上からギュッと押さえていた。
―お父さんは物判りは良いお人だけれど、腹の中では何を考えてるか判りいせん。くれぐれもそれは憶えておきなまし。
 松風が囁いた科白が今更ながらに甦る。
 お逸は思わず見送りの人の中に真吉の姿を探したけれど、何かの用事でもあって廓に残ったものか、上背のある真吉の姿は見つけられなかった。たとえ離れた場所にいても、真吉は並外れて長身のため、容易に見つけることができるのだ。
―真吉さん。
 お逸は心の中で恋しい男に呼びかける。
 この呼び声が、花乃屋のどこかにいる真吉に届くことを切なく祈りながら、いつまでも男の名を呼び続けた。
 春三月、江戸は漸く春めいた陽気に包まれようとしている。
                 (了)