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天つみ空に・其の四~春の日~

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 この時間から、吉原は俄に活気づく。まるで昼間の深閑とした場所とは信じられないほど、道にはあまたの男が行き交い、廓は明々と灯を点し、女たちの嬌声や三味線などの音曲の音色が夜を華やかに彩る。儚い夢だからこそ、とびきりの美しい夢の花を咲かせようと、男も女も床の中で現を忘れ、ひとときの夢を見る。現実を忘れようと躍起になり、いっときの快楽と甘い夢を貪ろうとする。男たちは女のやわらかな膚に抱かれ、幻の浄土をこの吉原で見ようとする。
 そして―、それこそがこの吉原という場所の現実であった。
 男と女が抱き合い、夜毎繰り返し一夜限りの儚い夢を見る。そういった場所である吉原は、何が潜むか判らぬ伏魔殿ともいえる。たとえ表の顔は穏やかでも、裏では、何を考えているやら計りも知れぬ。そういった底知れぬ危うさを秘めた魔物がうようよと渦巻き、たむろしている。
 ―ゆえに、吉原に住む魔物をけして甘く見てはならない―。
 そんな伏魔殿、魔物の巣窟を晴れて自由の身となり、出て行く女もいる。廓で生きる女たちの辿る道は実に悲喜こもごもだ。おしがのように折角年季明けまでをつつがなく勤め上げながら、結局、廓を出ても行き場がなくて、二度の廓勤めをして生涯をここで終える女もいる。
 女郎であれば、誰もが夢見る晴れの日、それは、年季が明けるか、身請け話が決まって大門を出るかのどちらかになる。
 松風花魁の身請話が正式に決まったと、お逸が耳にしたのはその月の終わりのことだった。松風を身請けするのは、東両国の両替商三船屋新右衛門という男だという。新右衛門は四十二になり、十年前に女房を亡くしている。女房との間には娘が二人いるが、既に長女は嫁ぎ、末の十六になる娘が今秋、嫁ぐことになっていると聞いた。三船屋は新右衛門の父の代から始めた店だが、随分と羽振りはよく、新右衛門はなかなかのやり手だ。
 この新右衛門が松風にぞっこんで、かれこれ馴染みになってもう三年になる。是非、身請けしたいとの新右衛門の意向が花乃屋楼主甚佐に伝えられたのが今年早々、話はとんとん拍子に進み、最終的に当人の松風も承諾した上で決まった。松風は囲われ者―妾としてではなく、正式な後添えとして三船屋に迎え入れられるのだ。まさに、吉原の女であれば、皆が憧れ、夢見る出世、玉の輿であった。
 本来なら、松風はまだ年季明けまで二年を待たなければならない。しかし、これは落籍する新右衛門がその二年分を上乗せしてもまだ多いだけの身請料を山積みすることで、話はあっさりとかたがついた。全盛の太夫を手放すのは花乃屋にとっては勿体ないともいえたけれど、松風も花魁となってはや四年、二十二歳になる。いかに今ときめいているとしても、せいぜい後、一、二年が女の盛りの時季だろう。
 ならば、ここで欲を出して、みすみす金になる話を逃す必要はない。松風に代わる稼ぎ頭を見つければ良いだけのことだ。計算高い甚佐は咄嗟にそれだけの計算をした上で、松風を快く送り出してやることにした。まさに、怖るべき男だった。
 松風の身請話を知った次の日、お逸は松風から呼び出しを受けた。厨房で昼に使った器を片付けている最中、おしがが現れて言ったのだ。
「松風花魁がお前に用があるそうだ」
 お逸は、朋輩のおさとに後を任せて、すぐに松風の部屋を訪ねた。この部屋で松風と二人だけで話をし、花魁の哀しい昔語りを聞いたのは、つい十日ほど前のことだった。
 一体何事かとお逸がおっかなびっくり部屋に入ると、松風は眩しいほどの笑みを向けてきた。今までどこか淋しげで翳のあった美貌が、明るく輝いている。まさに、嫁ぐことが決まった女の歓びを表しているようにも見えた。
 だが、松風の晴れやかな表情に、お逸はふと違和感を感じずにはいられなかった。生命を賭けても良いと思うほどに全身全霊賭けて愛し抜いた男がいたという松風。そんな彼女が果たして、非業の死を遂げた男のことを忘れることができたのだろうか。
 そして、良人となる三船屋のことを愛しているのだろうか。
 問うてみたい気持ちはあったけれど、それは、いかにしても口に出せるものではない。
 お逸は心の中をひた隠し、両手をついた。
「花魁、この度はおめでとうございます」
 たとえ過去がどうあれ、昔は昔、今は今だ。松風当人が最愛の男の面影から漸く解放され、三船屋に惚れたというのであれば、お逸が何を言う必要もない。ただ、心から花魁の門出を祝福したいと思った。
 松風は少し愕いたように、肩をすくめて見せた。
「あれ、もう、お逸ちゃんまでが知りなんしたか。お父さんには、ここを出るぎりぎりまで誰にも知らせないで欲しいと頼みんしたのに」
 少し拗ねた口調で言う松風は輝くばかりに美しい。
「あの―、何かご用でしょうか。おしがさんが花魁がお部屋に来るようにとおっしゃってると」
 お逸が控えめに言うと、松風は頷いた。
「お前を呼んだのは他でもない。先にお父さんがもう皆にあの話を話さんしたかとぼやいたでありんすが、実は、あちきの口からお前には直接伝えたいと思いんしてね」
 松風は立ち上がると、床の間の傍の違い棚に手を伸ばす。花魁ともなれば、床の間付きの広い座敷を与えられるのだ。床の間には、古今集の一首が流麗な手蹟で書かれている。これは、松風自らが書いたものだ。元々武家の出である松風は花乃屋に禿として入った時、既にある程度の字は書けた。その後も、手習いの師匠についてひととおりの知識を授けられ、殊に書道には造詣が深い。
 掛け軸の前には、いかにも高価そうな青磁の壺に紅梅の枝が数本、無造作に活けられている。その可憐な花は、束の間、お逸に真吉の面影を思い出させた。真吉と廊下で儚い逢瀬を果たしてから、既に半月が経ってしまった。あれから二人きりで逢う機会はまだ巡ってこない。真吉から貰った梅のひと枝は大切に女中部屋の片隅に飾っていた。むろん、花瓶などたいしたものはないゆえ、縁の欠けた湯飲みに水を入れて枝を挿しているだけだったが。
 毎日水を換え、大切にしていても、梅の花は数日でしぼんでしまった。今でもお逸はその枯れた枝を大切に懐にしまっている。いつも肌身離さないでいれば、真吉を身近に感じることができるからだ。今度はいつ逢えるかという不安に叫び出しそうになる自分を支えることができる。
 たった一本の枯れた梅の枝が、今のお逸にとっては何にも勝る宝物なのだ。
 松風はそんなお逸をじいっと見つめていたかと思うと、そっと何かを差し出した。どうやら、お逸が真吉のことを考えている間に、違い棚の小箱から取り出したらしい。
「これをあちきからの餞別と思うて、受け取っておくんなんせ」
「このような立派なお品、私などが頂いてよろしいのですか?」
 お逸は愕きに眼を見張った。
 閉(た)て切った障子窓を通して、早春の陽光が差し込んでいる。その春の陽を浴びてきらきらと輝くのは、蝶を象った笄であった。銀細工でできた蝶は羽根の繊細な模様の部分に所々、光る石のようなものが埋め込まれている。角度を変える度に、その石が光を受けて七色に煌めく。
「綺麗」
 お逸は思わず溜息を洩らした。