天つみ空に・其の四~春の日~
「何で、あたしらじゃ駄目なんだい? いや、何で、あたしたちには、好きな男と恋を語ることも将来を夢見ることも許されないのかい?」
「東雲さん、あんた―」
松風が憐れむような眼で東雲を見詰めた。
松風には東雲の気持ちはよく理解できる。東雲の言うとおり、彼女がお逸をひたすら憎んだのは、何も真吉に愛されるお逸への嫉妬だけではない。女として、けして惚れた男に添うことの叶わぬ我が身の運命(さだめ)と比べて、お逸は自由に男を愛せる。どうしてもその違いの理不尽さに合点がゆかなかったからだ。
「そうだよ、あたしは、あの薄汚い小娘に妬いてるのさ。そりゃア、真さんの心をけして私に渡さない憎い恋敵ではあるけれども、あたしがあの娘を憎いと思うのは、それだけじゃない。あたしらには自由にならない恋が、どうして、あんな小娘には許されるのか、それが納得ゆかないんだ」
「それは―」
松風が言いかけるのを、東雲が遮った。
「判ってるよ。あたしが女郎だからだろう? だけど、あたしは好きで女郎になったわけじゃない。親父だって、おっかさんが亡くなるまでは、ちゃんと真面目に働いてたんだ。なのに、おっかさんがあたしと妹たち二人を置いて死んじまって、人が変わったようになっちまった。酒ばっかり浴びるように呑んで、挙げ句は働かなくなって、あたしは酒代の代わりとして実の親に女衒に売られた。何も好きこのんで女郎になったわけじゃないんだよ? あたしだって、自由に生きたかったよう。花魁と崇め奉られて、綺麗なべべを着たって、所詮は身体を売るのが商売の女郎じやないか。あたしだって、親父に売り飛ばされなけりゃア、今頃は堅気の男と所帯を持って、人並みに赤ン坊の一人くらいは産んでたかもしれない。―そう思うと、悔しくて情けなくて、しようがないんだよ。何で自分だけがこんな哀しい想いをしなきゃならないのかと世の中の連中すべてを恨みたくもなるのさ。幸せに生きてる女を見りゃア、憎らしくって、とことん邪魔をしてやろうって気にもなるじゃないか。それが、そんなにいけないことなのかい」
「あんたの気持ちは判らないでもないよ。あたしだって、あんたと同じ頃にここに売られてきた身だからね。でもね、東雲さん。あたしゃア、つくづく思うのさ。自分が辛い想いをしたからこそ、人には優しくなれるし、できるんじゃないのかい。それが人間ってものじゃないのかい」
松風が諭すように言うと、東雲がすかさず叫んだ。
「あんたに何が判るっていうんだい? あんたは、もう直、ここから消えちまうんじゃないか。自分だけはさっさと一人で勝手に幸せになるくせに。あんたは落ち着き先が決まってるから、そんな悠長なことが言えるのさ。惚れた男の一人もいないし、先のことも何一つ判らない。することと言やア、夜毎、男の前で脚を開くだけ。そんな毎日に、一体、何の甲斐も希望もあるというんだよ」
「自分だけが幸せになるくせにって言われたら、そりゃア、あたしも黙るしかないね。ここを出る算段がついてるから、綺麗事が言えるんだって言われても、何も言えやしない。だけど、東雲さん。あの二人のことは、そっとしておいておやりよ。黙って見逃してやりな。それが互いに同じ廓の飯を食べる者同士の仁義ってもんだ。あの二人が相応の理由(わけ)ありだってことは、長年ここにいるあんたなら、もう薄々は察してるだろう? ああいう世間の眼から必死に逃げようとしてる連中は、どこか独特の翳があるからね。そんな二人をこれ以上追いつめて、どうするってえんだい」
松風は、来月早々、廓から出てゆくことになっている。身請話が決まったのだ。これはまだ内々の決め事で、知っているのはごく限られた者たちだけだ。ゆえに、お逸が松風の〝直にあたしも廓からいなくなっちまうんだ〟という科白を訝しく思ったのも無理はない。
遊女に身を堕とし、年季が明けるまでを無事勤め上げることができる者は多くはない。大抵は次から次へと客を取らされ、身体を酷使した挙げ句、途中で病にかかり、ろくな治療も受けさせて貰えず儚くなるのだ。松風のように遊女としては最高位の太夫にまで上り詰め、その上、花の盛りの全盛期に身請け話があっさりと決まる女郎は滅多といなかった。まさに、吉原でも稀有の果報者といえる。
「あんた、聞いてりゃア、さっきから自分のことを女郎だ女郎だって言ってるけど、幾ら身体が汚れちまったからと言って、心まで腐っちまったら、それこそ本当に堕ちるとこまで堕っこちたってことになっちまうよ? たとえ身体を売っても、心はきれいに保って真っ当に生きてゆく―それが吉原の女の心意気ってもんじないのかえ? 同じ廓で暮らす仲間を売っちまったら、それこそ、あんたは女としてだけでなく人間としても終わりだよ。あんたもあたしも仮にもお職を張る花魁を務める女郎だ。たとえ女郎でも太夫には太夫の意地と誇りってものがある。あたしは、ここからいなくなるけど、あんたには吉原(なか)で随一の名妓だ、花乃屋には、東雲という情けも意地も持った太夫がいたと、後々まで語り継がれるような、そんな花魁になって欲しいんだ」 松風の諄々とした諭しの言葉に、東雲ががっくりと肩を落とす。
「松風さん」
東雲が潤んだ眼を松風に向ける。
涙ぐむ東雲の肩を、松風は軽く叩いた。
「自分が辛くて嫌な想いをしたからって、また、他人を同じ目に遭わせたって何の意味もないじゃないか。そんなのって、余計に哀しいし、自分がいっそう惨めになるだけさ。そう、思わないかえ、東雲さん」
東雲がその場にくずおれた。声もなく、すすり泣く東雲を松風は静かな瞳で見つめていた。
不夜城吉原も昼下がりのこの時間は、夜の賑わいと喧噪が嘘のように静まり返っている。夜中、客の相手をする女たちは皆、それぞれの部屋で仮眠を取ったり、思い思いに過ごしているのだ。黄昏刻になれば、そろそろ起き出してきた女たちの声が聞こえ始め、客を迎える支度を始める女たちの姿も見られる。
そして陽暮れと共に、すすがきの三味線の音が鳴り響き、女たちは一斉に紅い紅殻格子の前に居並ぶ。思い思いに化粧をした女たちがズラリと居並ぶ様は圧巻とさえいえる。一大遊廓吉原ならではの光景であった。
むろん、最高位の花魁は、こういった張見世には出ない。客に名指しされても、引手茶屋という仲介場所を通すのがしきたりである。まず、引手茶屋まで出向き、客と共に見世まで戻ってくるという面倒な手順を踏まなければならない。
つまり、花魁を敵娼とするには、それだけの手間をかけなければならない。それこそが、まさに花魁が吉原の名花、最高級の遊女と目される証でもある。
格子に面した道を行き交う男たちに向かって、見世の若い衆がしきりに呼び込みの声をかける。客はその見世に気に入った娼妓がいれば、登楼し、その女と一夜を共にするのだ。
作品名:天つみ空に・其の四~春の日~ 作家名:東 めぐみ