天つみ空に・其の四~春の日~
お逸は廊下を歩きながら、先刻の松風の科白を思い出していた。
あれは、どういう意味なのだろうか。確かに甚佐には底の知れぬ怖ろしさのようなものがあるように思うけれど、お逸のような小娘相手にあれほどの男が何かを企んだりする必要はないはずだ。だが、甚佐の傍に長年いて、その気性をよく知る松風の言葉だ。ましてや、松風が良い加減なことを言ったりするとは思えない。
部屋を去り際のお逸に囁いた松風の言葉がどうにも解せず、お逸は首を傾げた。
しかし、今のお逸には、するべきことが山とある。今は思い悩むより、まず下女としての仕事を片付ける方が先だ。
次は東雲の部屋に膳を運ばねばならない。
松風と話し込んでしまったゆえ、膳の物はとうに冷めていた。これでは、また、東雲にきつく叱られるか嫌みを言われるに違いない。東雲が怒ると、柳眉が逆立ち、眉間に縦皺が寄り、到底、花のような美貌を松風と共に並び称される花魁とは思えない形相になる。むろん、元々美しい東雲は怒っても十分に美しいが、お逸から見れば、美しいだけに、かえって凄惨さが際立つ。あたかも美しい夜叉のごとき顔に見えるのだ。
お逸は、東雲の怒った顔を思い描き、身を縮めた。
《其の参》
それから四半刻も経たぬ頃、東雲の部屋の襖が開いた。小袖姿の東雲がそっと身をすべらせるように廊下に出てくる。そのまま歩いてゆこうとするのに、後ろからいきなり声をかけられた。
「東雲さん、どこに行きなんすか?」
東雲はハッとして、背後を振り返った。
東雲の前に毅然として佇むその女を見た刹那、東雲の華やかな面がさっと翳った。嫌な奴に逢ったと、露骨に顔に書いてある。
東雲はこの競争相手の花魁が苦手だった。花乃屋に売られてきたのも松風とはほぼ同時であり、共に禿として将来は花魁になるべく秘蔵っ子として育てられてきた。いわば、互いに同じ屋根の下で育った姉妹のようなものだが、松風は東雲よりは二つ年上だし、第一、その日暮らしの研職の娘であった東雲とでは、生まれも育ちも違う。向こうは、れきとした武家の出だ。そういう出自への引け目も手伝い、東雲は禿の頃から松風を何かと眼の仇にしてきた。手習いにしろ、芸事にしろ、幼い頃から松風は衆に抜きん出ており、東雲などが勝てるものではなかった。どれほど血の滲むような努力をしても、東雲が松風を凌ぐことはできなかった。そして、それは、今でも続いている。
眉をひそめる東雲に、松風は婉然と笑いかけた。流石に、こうなると貫禄の差というものが自ずから出てくる。普段は儚げな、雨に打たれた花のような風情の松風が数倍も大きく圧倒的な存在感を発揮してくるから、不思議だ。
幾ら東雲が松風を追い落とそうとしても、花魁としての風格は松風が上だと認めないわけにはゆかない。現に、馴染みの客筋も松風の方が東雲よりは、はるかに良いのだ。東雲本人がその力量の違いを自覚せざるを得ないだけに、尚更、腹立たしい、
東雲の馴染み客といえば、若旦那が多い。東雲だとて、頭の禿げ上がった爺さんよりは若い男が好みだけれど、若旦那では閨で何をねだって甘えても、あまり埒があかない。まだ主人の座につかない倅の身では、金も思うようにはならないらしい。その点、隠居や旦那衆を贔屓に持つ松風は、いつも豪奢な打掛や簪を贈られつけている。
もっとも、大人しやかで聞き上手、甘えさせ上手の松風は一定以上の歳の男たちには好まれ、美しいけれど険のある東雲は、若い男には惚れられても、金を持つ旦那衆には敬遠される。そこはやはり、女の気性によって、寄ってくる男たちの歳も違う。
「階下(した)に」
短く応えて、そのまますっと行こうとすると、再び名を呼ばれた。
「東雲さん」
今度の口調は先刻よりやや強い。
東雲は訝りながらも、その声に潜む有無を言わせぬ口調にその場に縫い止められたようになった。
「階下に行って、何をしなんすか?」
「―」
口を引き結んだ東雲に、松風が続けた。
「昼食なら先刻、お逸ちゃんが運んできたはずでありんす。それとも、お父さんかおしがさんに何か話でも?」
そのひと言に、東雲の顔が強ばった。
松風はその変化を見逃さず、鋭い眼で東雲を見据えた。
「東雲さんが何をしにいこうとしなんすか、このあちきには手に取るように判りんすよ」
「―!」
東雲の美しい面が蒼白になる。
松風はすっと東雲に近寄り、その手を掴んだ。
「こちらへ来なんし」
いつになく緊張した面持ちの松風に、ひっと、東雲が悲鳴を上げた。
「別に東雲さんを取って喰おうとしているわけではありんせん。この話、他の誰にも聞かせたいものではありいせん」
松風は東雲を強い力で引っ張った。半ば引きずられるような恰好で、東雲は隣の松風の部屋に引き入れられた。全く、この華奢な花魁のどこにこのような力が潜んでいるのかと思うほどの強さだ。
部屋の襖を閉めると、松風は漸く東雲の手を放した。
「いきなり何をしなんすつもりえ」
東雲は右腕をさすりながら、松風を睨みつけた。松風に掴まれた部分がまだひりひりと痛み、熱を持っているようだ。そっと袖をめくると、そこだけが薄紅く染まっていた。
我が身が何故、そのような言われなき真似をされねばならぬのかと、東雲がぐっ瞳に力を込めて松風を見る。
「階下に何をしに行くつもりでありんしたか」
改めて問うと、東雲は鼻で嗤う。どうやら、完全に態勢を立て直したようだ。
「あちきがどこに何をしに行こうと、松風さんには何の拘わりもないことでありんしょう」
東雲は、あくまでシラを切ろうとする。
刹那、松風の口調がガラリと変わった。
「ええい、まどろっこしいね。ありんす、ありんすなんて言ってたら、いつまでも話の埒があかねえや。東雲さん。あんたの了見は端からこちらとお見通しだよ。あんた、お逸ちゃんと真吉さんの仲をお父さんとおしがさんに告げ口するつもりだったんだろう」
蒼白だった東雲の顔が今度は紅くなった。
松風がスウと眼を細める。そうやると、普段の虫も殺さぬ花の松風花魁はどこかに消え、その瞳には酷薄ささえ秘めた凄みを宿していた。そんな眼で睨まれては、東雲はたまらない。たったのひと睨みで震え上がった。
それでも、まだ気丈なふりを装い、松風を睨み返してくるだけの度胸があるのは流石だ、この花乃屋の看板を松風と二分しているだけはある。
そんな東雲の必死の努力を嘲笑うかのように、松風はニヤリと口の端を引き上げた。
「どうやら大当たりだったようだねえ。東雲さん、確かに真吉さんは良い男さ。あたしだって、真吉さんに惚れた女がいなけりゃア、あんたと二人で真吉さんを争ってたかもしれない。でも、あのひとには、惚れた女がいるんだよ。他人の男を横から奪ったって仕方ないだろ? それに、酷なことを言うようだけれど、真吉さんは誰が迫ろうと、絶対に惚れた女以外の女に靡くもんさ。それは、あんただって本当はよおく判ってるはずだ。あのひとの心はけして動かせはしないってね」
「―だから、あたしは苛々するんだよ」
ふいに東雲が噛みつくように言った。
あれは、どういう意味なのだろうか。確かに甚佐には底の知れぬ怖ろしさのようなものがあるように思うけれど、お逸のような小娘相手にあれほどの男が何かを企んだりする必要はないはずだ。だが、甚佐の傍に長年いて、その気性をよく知る松風の言葉だ。ましてや、松風が良い加減なことを言ったりするとは思えない。
部屋を去り際のお逸に囁いた松風の言葉がどうにも解せず、お逸は首を傾げた。
しかし、今のお逸には、するべきことが山とある。今は思い悩むより、まず下女としての仕事を片付ける方が先だ。
次は東雲の部屋に膳を運ばねばならない。
松風と話し込んでしまったゆえ、膳の物はとうに冷めていた。これでは、また、東雲にきつく叱られるか嫌みを言われるに違いない。東雲が怒ると、柳眉が逆立ち、眉間に縦皺が寄り、到底、花のような美貌を松風と共に並び称される花魁とは思えない形相になる。むろん、元々美しい東雲は怒っても十分に美しいが、お逸から見れば、美しいだけに、かえって凄惨さが際立つ。あたかも美しい夜叉のごとき顔に見えるのだ。
お逸は、東雲の怒った顔を思い描き、身を縮めた。
《其の参》
それから四半刻も経たぬ頃、東雲の部屋の襖が開いた。小袖姿の東雲がそっと身をすべらせるように廊下に出てくる。そのまま歩いてゆこうとするのに、後ろからいきなり声をかけられた。
「東雲さん、どこに行きなんすか?」
東雲はハッとして、背後を振り返った。
東雲の前に毅然として佇むその女を見た刹那、東雲の華やかな面がさっと翳った。嫌な奴に逢ったと、露骨に顔に書いてある。
東雲はこの競争相手の花魁が苦手だった。花乃屋に売られてきたのも松風とはほぼ同時であり、共に禿として将来は花魁になるべく秘蔵っ子として育てられてきた。いわば、互いに同じ屋根の下で育った姉妹のようなものだが、松風は東雲よりは二つ年上だし、第一、その日暮らしの研職の娘であった東雲とでは、生まれも育ちも違う。向こうは、れきとした武家の出だ。そういう出自への引け目も手伝い、東雲は禿の頃から松風を何かと眼の仇にしてきた。手習いにしろ、芸事にしろ、幼い頃から松風は衆に抜きん出ており、東雲などが勝てるものではなかった。どれほど血の滲むような努力をしても、東雲が松風を凌ぐことはできなかった。そして、それは、今でも続いている。
眉をひそめる東雲に、松風は婉然と笑いかけた。流石に、こうなると貫禄の差というものが自ずから出てくる。普段は儚げな、雨に打たれた花のような風情の松風が数倍も大きく圧倒的な存在感を発揮してくるから、不思議だ。
幾ら東雲が松風を追い落とそうとしても、花魁としての風格は松風が上だと認めないわけにはゆかない。現に、馴染みの客筋も松風の方が東雲よりは、はるかに良いのだ。東雲本人がその力量の違いを自覚せざるを得ないだけに、尚更、腹立たしい、
東雲の馴染み客といえば、若旦那が多い。東雲だとて、頭の禿げ上がった爺さんよりは若い男が好みだけれど、若旦那では閨で何をねだって甘えても、あまり埒があかない。まだ主人の座につかない倅の身では、金も思うようにはならないらしい。その点、隠居や旦那衆を贔屓に持つ松風は、いつも豪奢な打掛や簪を贈られつけている。
もっとも、大人しやかで聞き上手、甘えさせ上手の松風は一定以上の歳の男たちには好まれ、美しいけれど険のある東雲は、若い男には惚れられても、金を持つ旦那衆には敬遠される。そこはやはり、女の気性によって、寄ってくる男たちの歳も違う。
「階下(した)に」
短く応えて、そのまますっと行こうとすると、再び名を呼ばれた。
「東雲さん」
今度の口調は先刻よりやや強い。
東雲は訝りながらも、その声に潜む有無を言わせぬ口調にその場に縫い止められたようになった。
「階下に行って、何をしなんすか?」
「―」
口を引き結んだ東雲に、松風が続けた。
「昼食なら先刻、お逸ちゃんが運んできたはずでありんす。それとも、お父さんかおしがさんに何か話でも?」
そのひと言に、東雲の顔が強ばった。
松風はその変化を見逃さず、鋭い眼で東雲を見据えた。
「東雲さんが何をしにいこうとしなんすか、このあちきには手に取るように判りんすよ」
「―!」
東雲の美しい面が蒼白になる。
松風はすっと東雲に近寄り、その手を掴んだ。
「こちらへ来なんし」
いつになく緊張した面持ちの松風に、ひっと、東雲が悲鳴を上げた。
「別に東雲さんを取って喰おうとしているわけではありんせん。この話、他の誰にも聞かせたいものではありいせん」
松風は東雲を強い力で引っ張った。半ば引きずられるような恰好で、東雲は隣の松風の部屋に引き入れられた。全く、この華奢な花魁のどこにこのような力が潜んでいるのかと思うほどの強さだ。
部屋の襖を閉めると、松風は漸く東雲の手を放した。
「いきなり何をしなんすつもりえ」
東雲は右腕をさすりながら、松風を睨みつけた。松風に掴まれた部分がまだひりひりと痛み、熱を持っているようだ。そっと袖をめくると、そこだけが薄紅く染まっていた。
我が身が何故、そのような言われなき真似をされねばならぬのかと、東雲がぐっ瞳に力を込めて松風を見る。
「階下に何をしに行くつもりでありんしたか」
改めて問うと、東雲は鼻で嗤う。どうやら、完全に態勢を立て直したようだ。
「あちきがどこに何をしに行こうと、松風さんには何の拘わりもないことでありんしょう」
東雲は、あくまでシラを切ろうとする。
刹那、松風の口調がガラリと変わった。
「ええい、まどろっこしいね。ありんす、ありんすなんて言ってたら、いつまでも話の埒があかねえや。東雲さん。あんたの了見は端からこちらとお見通しだよ。あんた、お逸ちゃんと真吉さんの仲をお父さんとおしがさんに告げ口するつもりだったんだろう」
蒼白だった東雲の顔が今度は紅くなった。
松風がスウと眼を細める。そうやると、普段の虫も殺さぬ花の松風花魁はどこかに消え、その瞳には酷薄ささえ秘めた凄みを宿していた。そんな眼で睨まれては、東雲はたまらない。たったのひと睨みで震え上がった。
それでも、まだ気丈なふりを装い、松風を睨み返してくるだけの度胸があるのは流石だ、この花乃屋の看板を松風と二分しているだけはある。
そんな東雲の必死の努力を嘲笑うかのように、松風はニヤリと口の端を引き上げた。
「どうやら大当たりだったようだねえ。東雲さん、確かに真吉さんは良い男さ。あたしだって、真吉さんに惚れた女がいなけりゃア、あんたと二人で真吉さんを争ってたかもしれない。でも、あのひとには、惚れた女がいるんだよ。他人の男を横から奪ったって仕方ないだろ? それに、酷なことを言うようだけれど、真吉さんは誰が迫ろうと、絶対に惚れた女以外の女に靡くもんさ。それは、あんただって本当はよおく判ってるはずだ。あのひとの心はけして動かせはしないってね」
「―だから、あたしは苛々するんだよ」
ふいに東雲が噛みつくように言った。
作品名:天つみ空に・其の四~春の日~ 作家名:東 めぐみ