小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

天つみ空に・其の三~春の日~

INDEX|8ページ/9ページ|

次のページ前のページ
 

 お逸が呟くと、松風が小首を傾げた。そうやると、到底二十二歳には見えない。どこか少女めいた雰囲気が漂い、余計に松風を魅力的に見せる。要するに、美しい女はどのような表情をしても美しいのだ。
「あちきは、お前が誰と何をしようと邪魔立てするつもりも詮索するつもりもありいせん。でも、あちきとしては同じ見世の内で無用の血が流れるのは見とうはござりんせん。お前もここに来た最初におしがから聞きなんしたはずや、同じ廓内に暮らす男と女の恋愛は禁忌なんすえ」
「―花魁、それは一体、どういう」
 お逸が辛うじて言葉を紡ぐ。それを見た花魁はフッと笑った。その曖昧な笑みも感情のおよそ読み取れぬ瞳もどれもが底知れず、お逸に途方もない恐怖を与える。
「可愛い顔をして、お前もなかなか食えぬ娘(こ)でありんすなあ。これは、お父さんの考えなんすことも案外に正しうなるやもしれなんす」
 何で、ここに楼主の名前が出てくるのか。お逸は解せない。まさか、この聡明な松風が楼主甚佐の思惑をとうから見抜いているとは想像もできなかった。
 松風は依然として感情の窺えぬ双眸でお逸をじいっと射竦める。お逸は、その美しい眼(まなこ)が一瞬、無限の闇を映し出しているように思い、慄然とした。
 その瞳は何も映してはおらず、何の感情も浮かんではいない。あまりにも長い間、苦界の様々な出来事を間近につぶさに見つめてきた瞳だった。
 松風は元は武家の出であったという。話好きの朋輩のおさとから教えられたところによれば、三百石取りの御家人の長女として生まれたが、松風が七歳の砌、父親が上役の怒りを買い、切腹、家はお取り潰しとなった。母親は幼い弟を連れて実家に戻ったが、松風だけは引き取って貰えなかった。母の実家は既に弟夫婦の代になっていたものの、元々、五十石取りの微禄の家であった。七人の子持ちの弟夫婦に、到底、出戻りの姉とその子ら二人を新たに養うゆとりはなかったのだ。
 松風は母親によくよく因果を言い含められ、女衒に売られた。松風が身を売った金は叔父―つまり母の弟―夫婦にそのまま渡った。
 松風は七歳で花乃屋の主人甚佐に買い取られ、ひとめで将来はお職を張れる花魁になれると見込まれた。禿として大切に仕込まれ育てられてきたのだ。十五で振袖新造になり、十八で突き出し、一躍花魁の座についた。
「昔話を致しんしょう」
 お逸は息を呑んで、花魁の笹紅を塗った口許を見つめた。
「あちきには昔、心に決めた男(ひと)がありんした。その男はこの花乃屋の若い衆を務めておりんした」
 刹那、お逸は眼を瞠った。
 松風が微笑んで、首肯する。
「そう、どこの廓でも若い衆と女郎の恋はきつう戒められておりんす。この花乃屋では特に厳しうて、見つかれば、まず生命はないものと覚悟は致さねばなりんせん。お父さんは話の判るお人でありんすけど、そういったことについてはどこまでも非情になりんすよって」
 松風はそこで小さな息を吐いた。
「それでも、あちきは、その男に惚れておりんした。惚れて惚れ抜いて、この数ならぬ生命さえ、望まれれば歓んで差し出しても良いと思うておりんしたよ」
 松風は遠い眼を虚ろに彷徨わせる。
 そのまなざしは、はるかな昔を見つめているようでもあった。花魁は夢見るような眼(まなこ)で昔語りを始める。
 お逸は、その話にじっと聞き入った。
 松風の恋人は信八といい、当時、二十六になっていた。松風はその頃、まだ初音と呼ばれており、振袖新造になって二年めであった。
 初音がまだ禿であった時分から信八とは親しく、信八はよく初音や他の禿にも菓子を買ってきてくれた。そのときはまだ、信八は初音にとって優しい兄のような存在であったにすぎない。
 それが初音が振新となった頃から、次第に二人の関係が微妙に変化し始めた。当時、花乃屋で全盛を誇っていたのは緋(ひ)桜(おう)という花魁で、初音は禿時代、緋桜付きであった。廓の姐女郎と妹女郎は義理の姉妹関係にあり、姉は妹のすべての面倒を見―むろん、それは衣装代、食い扶持などの金銭的な面も含めている―、躾などをする反面、妹は姉に仕え、様々な雑用をこなす。
 振新になって後、初音は緋桜花魁からは独り立ちしたが、振新は花魁が座敷に客を迎える際、その傍に控え、取り持ちなどを務める。振新の間はけして客は取らず、お清のままであることが定められていた。
 ところが、いつの時代にも廓遊びの心得を知らぬ無粋者がいるわけで、いつものように緋桜花魁の傍に控えていた初音を客が見初めた。通常、花魁ともなれば初会の客とは床を共にしない。何度か通ってきて誠意のあるところを客が見せ、花魁とも顔なじみになってから、晴れて床入りとなるのが手順であった。
 その日の客は緋桜にとっては初めてであり、日本橋の生糸問屋の隠居だったという。もう六十を過ぎた爺さんで、その割には脂ぎった膚が初音には随分と気持ち悪いもののように見えた。内心、
―姉さんは、あんな助平そうな爺イと床を共にしなければならないなんて、お可哀想。
 と、緋桜に同情していたのだ。
 が、どういう番狂わせか、この隠居は噂に聞いた高嶺の花の緋桜花魁より、振袖新造の初音の方にすっかり惹かれてしまった。大体名指しした当の花魁の面前で、花魁よりも振新の方が良いなぞと堂々と宣言すること自体が、花魁にとっては失礼な話だ。少しでも廓での作法や常識を知る者ならば、まず、こんな馬鹿げたことはしないものだ。
 とにかく今夜はこの妓と床を共にさせろと煩いったらない。だが、振新は絶対に身体は売らない、客と褥を共にしないというのは廓の掟だ。楼主の甚佐は、そういったけじめはきっちりとつけるところは昔から変わらない。幾ら江戸でも名の知れた大店の隠居であろうが、金子を積まれようが、頑として譲らなかった。
 どうでも初音を閨にと主張する隠居は、ついに強硬手段に出た。初音の手首を掴み、強引に別の部屋に連れてゆこうとしたのである。座敷は大騒ぎになった。三味線を弾く芸者衆や幇間は大わらわで、騒ぎを聞きつけた若い衆が駆けつけ隠居を押さえるに及んで、漸く騒動がおさまった。
―良い加減にしなせえ。仮にも名の知れた大店のご隠居が孫のような年若な娘を相手に、何を血迷うていなさる。ご隠居も廓遊びの達人なら、振袖新造に手を出すことは、たとえお大名でもできねえことは、よおくご存知じゃありやせんかい。
 そう言って、落ち着き払った態度で隠居をいなしたのが信八であった。
 すっかり機嫌を悪くした隠居はその夜、花乃屋には泊まらず、さっさと帰っていった。
 初音と信八が急接近したのは、その事件がきっかけだった。二人はそのことから互いを男女として意識するようになり、直に深い仲になった。やがて、初音は十八で花魁となり、たちまちにして緋桜を凌ぐ花乃屋の稼ぎ頭になった。
 花魁松風となった初音は、時折、空き部屋で信八と短い逢瀬を持っていた。楼主の甚佐は、そのことを知るはずもなく、二人は実に巧妙に監視の眼をかいくぐって逢瀬を重ねていたのだ。