天つみ空に・其の三~春の日~
そんなある日、部屋持ち女郎の初瀨という女が脚抜けした。初瀨の馴染みは飾り職人であったが、しがない一職人に初瀨を身請けするだけの金はない。どんなに無理をしても、せいぜいひと月に一度登楼するのが精一杯であった。どうしても一緒になりたい―、思いつめた二人はついに脚抜けをすることを決意、ある夜、手に手を取って廓から脱出した。
しかし、事がそうそう上手く運ぶはずもない。初瀨も男も直に追っ手に捕らえられ、男の方は滅多蹴りにされた挙げ句、虫の息になったところを道端に放り出された。一方の初瀨は廓内で若い衆数人に寄ってたかって折檻される憂き目になった。両手を後ろ手に縛められ、鞭で打たれ続ける。気絶すれば、水を頭からかけられ、また折檻が延々と続く。
その若い衆の中に信八もむろんいた。折檻もかれこれ一刻余りに及ぼうかという頃、信八が言った。
―そろそろ、これくれえにしちゃア、どうだ。これ以上、痛めつけたら、こいつは死んじまうぜ。
だが、脚抜けした女郎が折檻の上、死に至るというのは別段珍しい話ではない。むしろ、脚抜けをすれば、これだけの酷い目に遭うのだと、他の女郎に半ば見せしめのために行われるための仕置きであった。信八の提案に誰も頷くどころか、関心も示さず、他の男が鞭を振り上げた。その男は若い衆の中でも殊に残忍で知られていた。普段から穏便派の信八とは馬が合わなかった。
信八は鞭を振り上げた男の手を咄嗟に掴み、何とか止めさせようと説得を試みた。その中に、男が怒り出し、二人は取っ組み合いになる。男の中には日頃から、何かといえば自分とは反対意見の信八への反発があった。それが火種となり、喧嘩は凄まじいものとなった。男は信八に向かって幾度も鞭を振り上げ、その先は信八を鋭く打った。仲間が止めようとしても、男は猛り狂った手負いの獣のようで、到底手に負えない。漸く男が肩で息をしながら鞭を降ろした時、既に信八は道端で事切れていた―。
後に、信八を殺した男は、松風に惚れていたことが判った。男が必要以上に信八を眼の仇にしていたのは、惚れた女の心を奪った憎しみも大いに含まれていたに相違ない。
「あれから、もう四年になりんすか。早いもんでありんす。信八っつぁんが亡くなった時、あちきは十八でありんしたから」
松風の眼から涙の雫が溢れ、すべらかな頬をころがり落ちた。
「信八っつぁんは、何とはなしにお前の良い人に似ていなんす。口数も少なくて、いつも物静かに何かを考えているように見える―、あちきから見たら、随分と大人に見えなんした。とっつきにくい外見の割には優しくて、その優しさがあの男の生命を奪うとは、まさか、あの男も考えてなかったでありんしょう。馬鹿でありんすよ、他人を幾ら庇ったって、当の自分がおっ死んじまったら、おしまいでありんす」
最後の方は涙混じりの声になった。
みすみす恋人を死なせてしまった自分への怒り、やるせなさが松風の心でせめぎ合っているように思え、お逸は眼を伏せた。お逸のこれまで見る松風はいつも泰然としていて、流石にお職を張る花乃屋随一の花魁だけの風格はあると、何か神々しいものでも見るように憧憬のこもった眼で見ていた。
しかし、今、眼の前で亡くなった恋人を思い涙するのは、誇り高い花魁ではなく、ただ一人の女であった。
松風が白い指先で涙をぬぐう。そういった何げない挙措さえ、花魁ともなれば、何やらそこはかとない色香が漂うようだ。
「真吉さんとお前を見ていると、あちきは、四年前のあちきと信八っつぁんを見ているような気がしなんすよ。あの頃のあちきたちも不器用で一途で、ひたむきな恋に身を灼いておりんしたもの。だからこそ、お前たちには、あちきたちと同じ道は歩んで欲しくはない、せめて二人で幸せになって欲しいと願うておりんす」
松風がじみじみとした口調で言う。
お逸はその場に両手を付いた。
「花魁、お願いです。どうか、私たちのことは黙っていて頂けませんか、このまま見過ごして下さい」
と、松風がにっこりと笑った。先刻までの消沈した様子はすっかり消えている。その晴れ晴れとした表情は、何か憑きものが落ちたようにも見える。
「私をそんな情のない女だと思ってたのかえ? 見くびらないで貰いたいね。安心しな。喋りゃアしないよ」
いきなり廓言葉を使わず、伝法な物言いになった松風を、お逸は愕いた顔で見つめる。
淋しげな顔立ちで大人しやか―、それが松風のウリだと思い込んできたけれど、どうやら、素顔の彼女は見かけどおりの手弱女(たおやめ)とばかりはいかないらしい。しかし、ただ大人しいだけのこれまでの松風よりはよほど親しみが持てる。
そして、ふと悪戯っぽい表情になった。
「どのみち、私は直に廓(ここ)からいなくなるんだもの。あんたらがどうなろうと、あたしには拘わりのないことだよ」
突き放した口調とは裏腹に、労りのこもった眼だった。
直にここからいなくなる―、その言葉に、お逸は、ふと疑問を憶えた。これでは、松風花魁が近い中にこの見世から出ていくとでもいうようだ。
何かにつけきつく当たる東雲に比べ、松風はお逸がおしがに
作品名:天つみ空に・其の三~春の日~ 作家名:東 めぐみ