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天つみ空に・其の三~春の日~

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―花魁、滅多なことをなさるもんじゃねえ。同じ見世内の者同士の色恋沙汰はご法度と、誰よりも花魁がご存知じゃアないですかい。
―あちきは構いはしいせん。真さんにただの一度でも良い、こうやって抱いて貰えれば、たとえこの身は八つ裂きにされたとて本望にござりんすよ。
 口調は艶で、甘えるようだが、その眼はどこまでも本気だと訴えている。真吉は、これはまずいと思った。
―花魁ともあろうお方が何を馬鹿なことをおっしゃるやら。おからかいになられちゃア、俺が困ります。良い加減にして下さいよ。
 あくまでも冗談で済まそうとするのに、花魁の方は引き下がる気配はない。
―真さん、あちきは本気で―。
 なおも言い募る東雲に、真吉は言った。
―花魁、俺には心に決めた女がいます。いずれ、ここを出るときが来たら、俺はそいつと所帯を持ちてえ。
 刹那、東雲の大輪の花のごとき容(かんばせ)がさっと強ばった。
―まさか、真さん、お前さんの言いなんす心に決めた女とは、あのたどんのことでありんすか?
―あれは、妹だ。
 真吉が言うと、東雲が甲高い声で笑った。
―まさか、真さん。お前さんとあのたどんが兄と妹だなんぞこの廓の連中が信じてるとお思いなんすか。皆が知らぬ貌をしていなんすけど、あんな真っ赤な嘘を信じてる者は一人もおりいせん。
 黙って部屋を出て行きかけた真吉の背に、憤りの滲んだ声が追いかけてきた。
―このあちきにこれほどの恥をかかせるからには、それだけの覚悟は持ちなんすか、真さん。
 真吉は、それには応えず、黙って部屋の襖を閉めた。背後で、腹立ち紛れに、何かを襖にぶつける音が響いた―。
「真吉さん?」
 真吉が物想いに耽っていると、お逸が不安そうな表情で見つめていることに気付いた。
「ごめんな、つい、ボウとしちまって。折角、お前に逢えたっていうのに」
 わざと明るく言う真吉を、お逸がなおも気遣わしげに見つめている。
「疲れてるのかしら。大丈夫、仕事がきついんじゃないの」
 お逸の眼には何の疑いもない。ただ純粋に真吉の身を案じてくれているのだと判る。
 優しい娘だと、真吉は今更ながらにお逸の優しさに打たれた。どんな境遇に陥っても、けして挫けず、ひたむきに生きようとするお逸のその明るさ、健気さがいじらしいと思った。
「大丈夫だ。俺はこう見えても、丈夫なだけが取り柄なんだから」
 真吉がおどけて胸を叩いてみせると、お逸が真顔で言う。
「そんなこと言って。うちのおとっつぁんもそうだったのよ。健康だけが取り柄だからって、無理ばかりして、それであんな風に突然倒れてしまったの」
「何でえ。俺はまだ二十三だぜ。お逸のおとっつぁんと同じにしねえでくれよ」
 真吉は笑いながら言うと、もう一度、お逸を引き寄せた。
「お逸、お前の方こそ、よおく気をつけるんだぞ? 幾ら膚を黒くしていても、用心するに越したことはねえ。また、お前をどうこうしようとする薄汚ねえ客が出てこねえとも限らない。俺がいつも傍にいて守ってやれれば良いんだが、そういうわけにもゆかねえ。持ち場を離れるわけにはいかないんでな。くれぐれも気をつけろ、お逸」
 耳許で囁いた真吉がお逸の両頬を大きな手のひらで包み込む。そっと仰のけられ、唇を重ねられた。今度は少し長い口づけだった。先刻よりは長いとはいっても、そっと押し当てられただけのごく軽いものだ。
 唇が離れると、お逸の眼にまた涙が溢れそうになった。
「じゃあな、あまり長く一緒にいて、誰かに見られちまったら困る」
 でも、真吉の前でこれ以上、涙は見せられない。お逸は懸命に涙をこらえた。
「泣くな、お逸。頼むから、泣かないでくれ」
 そう言う真吉の眼も揺れていた。
 心を後に残しながら、真吉が階下へと降りてゆく。お逸は涙を零しながら、その場にくずおれた。あまりにも呆気ない逢瀬だった。
 それでも、逢えないよりは、よほど良い。
 次はいつ逢えるのだろうか。また、次に逢える日までの長い日々を指折り数えて暮らす毎日が続くのだ。
―真吉さん。
 お逸の眼から次々に溢れる涙の雫が廊下を濡らして、染みを作った。
 その時、廊下の突き当たり―わずかに開いていた東雲の部屋の襖が静かに閉まったことに、迂闊にもお逸は気付かなかった。

 三日が過ぎた。
 昼飯刻、お逸は二階の東雲・松風の部屋まで昼餉の膳を運んでゆく。大部屋で寝起きする大部屋女郎であれば、食事も毎度定められた部屋で皆一斉に食べるのが習いだが、部屋持ち―個室を専用に与えられている女郎―以上になると、女中が各々の部屋に食事を運んでゆくのだ。そんなところにも、格上と格下の遊女への扱いの差が歴然としている。
 ゆえに、誰もが花魁は無理としても、部屋持ちの身分になれるのを夢見るわけだが、現実として部屋持ちになれるのは、ほんのひと握りの女たちだけだ。大部屋女郎と呼ばれる下級の遊女たちは、廻し床といって、大部屋を衝立で幾つにも仕切った中で日に何人もの客を取らされるのだ。そのため、彼女らは廻し女郎とも呼ばれる。
 二階の廊下を真っすぐ進んだ奥の突き当たりが花魁の居室になる。この花乃屋でも最高位の太夫に代々与えられる部屋である。お逸はまず、右の松風花魁の部屋の襖を開けた。
「太夫、ご昼食をお持ちしました」
「あい、ご苦労でありんすね」
 それまで書見をしていたらしい松風が物憂げにゆるゆると視線を動かす。このいかにもけだるげな挙措こそが色香がある―と、松風の馴染みにはたいそう評判が良い。おっとりとした物言いと大人しげな容貌も合わせて、万事がもう一人の花魁東雲とは対照的だ。
 お逸が食事を花魁の前に運ぶ。そのまま頭を下げて出ていこうとするのを、背後から呼び止められた。
「少し時間を下さんせ。今日は、お前さんと話がしとうござりんす」
「―」
 お逸は突然のことに、戸惑いを隠せない。
 花乃屋でもお職を張る全盛の花魁がいきなり下女風情に話がしたいとは。
 お逸の不安を見透かしたように、松風が淡く微笑する。
「何もそんなに怖がらずとも良いではありんすか? あちきは何もお前を取って喰おうなぞとは考えてはおりいせんよ」
 お逸は覚悟を決めて、花魁よりはやや離れた下座にきちんと座る。今日の花魁は、薄い水色の小袖に華やかな紫の帯を前結びに締めている。小袖には雪花の模様が金糸、銀糸で縫い取られている豪奢なものだ。大方は松風の馴染み客の誰かが贈ったものだろう。
 こうして間近で見ると、お逸でさえ眼を奪われるほどの美貌だ。華やかな東雲が太陽なら、たおやかな松風はさしずめ月といったところか。東雲のように化粧がいささか濃いすぎる感がせず、ごく薄化粧なところも好感が持てる。
 お逸が松風の美しさに見惚れていると、松風はさもおかしそうに声を立てて笑った。
 声さえも、鈴を鳴らすように魅惑的だ。
 松風の笑い声で、お逸は突如、現実に立ち返った。
「花魁、お話とは何でしょうか」
 直截に訊ねると、松風の笑い声がふっと止んだ。真顔になった花魁は、更に美しい。
 お逸は、その美しさに魂を吸い取られそうになった。
「三日前の昼に、お前はこの二階の廊下で何をしていなんしたか」
 その問いは、またしても、お逸を現に返らせる。
「三日前の昼―」