天つみ空に・其の三~春の日~
お逸が少しませた口調で言い返すと、真吉は破顔した。
「そうならそうと、早く言ってくれよ。俺はてっきり、お前がこんな花を簪代わりにしろって言われて、がっくりきたんじゃねえかと思っちまったじゃねえか」
「そんなはずないでしょ。私、本当に嬉しい。ありがとう、真吉さん」
微笑みながらも、お逸は嬉し涙をポロポロと零している。そんなお逸を優しい眼で眺め、真吉もまた笑った。
「お逸は本当に泣き虫だな」
その口調はいかにも呆れたようだが、まなざしは包み込むようにやわらかだ。
その時、ふと、お逸の脳裡に先夜の朋輩たちの話が甦った。
―ねえ、聞いた? 東雲さんってば、昨日は真吉さんを自分の部屋に引き入れたんですって。
今、ここで真吉に東雲とのことを訊ねたい気持ちが湧き上がる。
「あの、真吉さん」
しかし、その後がうまく続かない。一体、どう問えば良いのか判らない。まさか、東雲花魁に呼ばれて、白昼から堂々と花魁の部屋に入り込んだんですって、とも言えるはずがない。
第一、それでは、お逸が真吉を全く信じてはいないことになる。
「良いの」
お逸は、消え入るような声で言った。
「何だよ、言いたいことがあるのなら言えよ」
真吉が重ねて問いかける。
「本当に良いの、私、真吉さんを信じてるから」
「俺を信じてる―? 何のことだか、皆目判らねえな。何だよ、謎かけ問答のようなことを言ってねえで、思い切って言ってみろ」
なおも問いつめられ、お逸は、とうとう口にしてしまった。
「―この間の夜、おさとちゃんが話してたの。真吉さんがその、東雲さんの部屋に行ったって」
最後はどうしても上手く言えず、顔が紅くなった。
「だって、東雲さんって、同じ女の私が見ても、凄く綺麗でお月さまのように光り輝いていてるから。真吉さんもきっと東雲さんに好かれて悪い気はしないんじゃないかって」
そこまで言って、お逸はますます紅くなった。
「ごめんなさい、私ったら。馬鹿なことばかり。本当にごめんなさい。どうかしてるわ」
あまりにも自分が惨めで情けなくて、お逸は今度は哀しくて涙が出る。滅多に逢えない真吉にこうして、やっと逢えることができたというのに、何で自分は、こんなつまらない話しかできないのか。
真吉は静かな眼でしばらくお逸を見ていたが、やがて、その顔に優しい微笑がひろがった。
「馬鹿だな」
やっぱり嫌われてしまった―と、お逸が絶望的な気持ちになった時、お逸の身体は再び真吉の逞しい腕に抱きしめられていた。
「それを言うなら、俺だって同じさ」
「え」
お逸は眼を見開いて、真吉を見つめる。
「お逸が一昨日、酔っぱらった客に絡まれたって話、若い衆たちの間にもひろまっちまってるけどさ。その話を浅吉さんから聞いたときは、正直、俺、カッとなって、お逸を手込めにしようとした奴を殺してやりたいとさえ思った。ま、流石にそれは止めたけどな。そんな大それたことをしでかして、ここにいられなくなっちまったら、それこそ元も子もねえ。だから、おあいこさ、俺だって、お逸と同じ、お前が他の男に乱暴されそうになったって聞いただけで、これだけ熱くなるんだ。お前が東雲花魁と俺のことで妙な噂話を聞いて―妬いてくれたのかと思やア、俺も嬉しい」
「真吉さん―」
真吉の優しさと気遣いが心に滲みる。
真吉が屈託ない笑みを見せた。
「確かに四日前の昼過ぎ、俺は東雲さんに呼ばれて、部屋までは行ったさ。だが、東雲さんの馴染みの扇屋の若旦那に文を届けてくれと頼まれただけで、すぐに部屋を出たぜ」
実際には、東雲に迫られたのだけれど、それは、今、この場でお逸に告げられるものではない。そんなことをすれば、お逸の心も傷つくし、東雲の花魁としての体面にも疵がつくだろう。
昨日の昼下がり、真吉は他の若い衆から東雲が呼んでいると言われ、急いで二階に上がった。廊下を挟んで女たちの部屋が並んでいて、いちばん奥の突き当たり―横に居並んだ二つの部屋が花乃屋でお職を張る二人の花魁、東雲と松風の部屋になる。花魁ともなれば、陽当たりの良い続きのふた部屋をあてがわれ、豪奢な調度に囲まれて、大名の姫君並の優雅な暮らしぶりである。もっとも、その根本は身体を売る哀しい女郎の運命であるということには何ら変わりはなかったが。
右隣の東雲の部屋の襖の外から控えめに声をかけると、入るように言われた。真吉は少し躊躇い、
―ご用があれば、ここでお承りします。
と応えたのだが、なおも東雲は執拗に入れと言う。やむなく襖を開けて中に入ったところ、東雲が緋縮緬の長襦袢一枚という、しどけない恰好で豪奢な夜具の上に横座りになっていた。
花魁ともなれば、いつもきらびやかな衣装、眼にもあやな小袖や打掛を身に纏っているものだが、昼の客もおらぬときは、このような姿になることもあるものか。真吉は訝しく思いながらも、用向きは何かと慇懃に訊ねた。
―この文を扇屋の若旦那に渡してくんなまし。
東雲は一通の書状を差し出した。薄様の紙に流麗な手蹟で書かれた手紙は、東雲自身の手になるものだ。花魁ともなれば、読み書きはむろん、琴や詩歌から諸芸万端に至るまでを身につけていなければならない。花魁の馴染みとなる客は、大抵は大店の旦那衆か、ときには高禄の武士といった金持ちや身分の高い輩が多かったからである。
それなりの教養を持つ客の相手もちゃんとできるように、花魁もまたそれだけの知識・教養を備えていなければならなかった。そのため、花魁になるべく仕込まれる禿は幼い頃から、そういった手習いを行儀作法と共に厳しく教え込まれる。つまり、花魁になるためには単に器量が良いというだけではなく、利発で機転も利かなければならなかった。
―へい。
真吉は頷くと、一礼してその文を受け取ろうとした。と、東雲が文を持った手をさっと後ろに引く。何故そんなことをするのかと訝りながらも、真吉が手を伸ばすと、東雲はその真吉の手を握った。
真吉は東雲の意図を計りかね、その美しい面を見つめた。
―真さん、少し肩を揉んで下さんせ。
唐突に命じられた。ここで素気なく拒んで花魁の機嫌を損じても、後々厄介なことになる。真吉は仕方なく言われたとおり、東雲の背後に回りその肩をしばらく揉んだ。
近付いた途端、東雲の着物に焚きしめている香のかおりが鼻腔をくすぐる。手のひらに伝わってくる膚のやわらかさは薄い襦袢一枚を通してはっきりと感じられた。
―真さん、今度は脚を揉んで下さんせ。もう、毎夜のお勤めで、脚も腰もだるうて痛うて。
それは真吉も断ろうとした。が、ふと東雲の顔を見ると、その眦がきりりとつり上がっているのを見、またしても仕方なく、その前に回った。
そのときだった。真吉が後ろから前に回り込んだ刹那、東雲がパッと両脚を大きく開いたのだ。おまけに両の膝を立てたものだから、緋縮緬の襦袢の裾が割れ、奥の翳りがちらりとかいま見えた。
―真さん、あちきの気持ちは真さんだとて、ようご存知でありんしょう?
意味深なまなざしで妖艶に微笑みかける東雲が真吉にしなだれかかる。真吉は咄嗟に、東雲の身体をそっと押しやっていた。
作品名:天つみ空に・其の三~春の日~ 作家名:東 めぐみ