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天つみ空に・其の三~春の日~

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 それに、もう一つ、不安がある。それは、先の見えないことから来るものに相違ない。今はとりあえず身を潜めることが大切だと真吉は言う。しかし、この先、自分たちは一体どうなるのか。いつまで、ここで離れ離れになって暮らさなければならないのだろうか。ずっと息を潜めて、この吉原に身を隠し生き続けなければならないのだろうか。
 廓暮らしが嫌というわけではない。下女の仕事は辛いが、仲間は優しいし、夜毎下女部屋で繰り広げられる賑やかな話も、これまで同年代の友達がいなかったお逸には新鮮で愉しかった。お逸という娘は、そういう娘なのだ。たとえ、その場所がどこであろうと、ひとたび根を下ろした場所で自分なりに懸命に生きてゆこうとする。どんなに辛い暮らしの中でもささやかな愉しみや生き甲斐を見つけようとする。
 もし、あのまま伊勢屋に居続ければ、お逸は既に清五郎のものになっていただろう。夜毎、清五郎と褥を共にしなければならないことを考えれば、今の暮らしは、はるかに良い。
 あれから清五郎がどういう行動を取ったか、吉原に潜入しているお逸には知るすべもない。が、執念深い清五郎の性格から考えても、そのまま手に手を取って出奔した手代と妻を見逃したとは思えない。真吉はそう言い、用心には用心を重ねた方が良いと、お逸に繰り返して言って聞かせている。
 真吉とは直接に話せなくとも、同じ廓の中にいるという安心感がある。それでも、それ以上を望んでしまうのは、自分の我が儘だろうか。いつか、ここを出て真吉と二人で新しい生活を始めることができたなら、どんなにか幸せだろう。そして、お逸は実際にそんな日が来ることをひそかに夢見ていた。

《其の弐》

 その二日後の昼下がり、お逸はいつものように二階の廊下をせっせと拭いていた。隅から隅までを行きつ戻りつしながら雑巾をかける。丁度、何往復かした時、ふいに眼の前に立ち塞がる人影があった。
「お逸」
 名を呼ばれ、お逸は弾かれたように顔を上げた。深い声が心に滲み通るようで、この声を聞いただけで涙が溢れそうになる。
「真吉―さん」
 言葉が、想いが溢れてうまくまとまらない。お逸は思わず溢れそうになる涙をこえらながら、真吉を見上げた。
「逢いたかった」
 ただ、そのひと言だけをやっとの想いで伝える。本当はこんな短い素っ気ないひと言でこれまでの自分の想いなど伝えられやしないのに。
「俺も、逢いたかった」
 真吉がお逸の手を引いて、立ち上がらせる。
 とうとう耐えきれず、涙がポロリとひと粒零れた。
「淋しくはなかったか?」
 顔を覗き込まれ、お逸は小さく首を振る。
 この前に二人きりでこうして話をしたのは、もうひと月以上も前になる。その後も何度かは顔を見かけたけれど、他の人がいたから到底話などはできなかった。
 二人は、花乃屋では兄妹だということになっている。甚佐に問われた真吉が咄嗟に機転を利かしてそう応えたのだ。が、二人が兄妹だということを皆がどこまで信じているのかは判らない。最初に甚佐が考えたとおり、真吉とお逸は兄と妹というには、あまりにも似ていないし、第一、その態度が不自然すぎる。
「私なら、大丈夫よ。心配しないで」
 真吉に余計な心配はかけたくない。お逸が微笑むと、真吉が小首を傾げた。
「そうか。だが、その顔は到底、大丈夫という表情じゃねえな」
 真吉はそう言うと、スと手を伸ばして、お逸の頬の涙を指で掬い取った。
「ここでの暮らしもそうずっと続くわけじゃない。ほとぼりが醒めて、伊勢屋の旦那の追及の手がなくなったら、俺はお前を連れてここを出るつもりだ。ここにいるのは、あくまでも世間から身を隠すため、伊勢屋の旦那の追っ手の眼をくらますためだからな、だから、そんな淋しそうな顔をしないで、もうちょっとの間待っててくれよ、な」
 真吉に指摘され、お逸はあっと顔に手を当てた。不安と淋しさに心を揺らす自分は、それほど切羽つまった表情をしていたのだろうか。
 そんなことを考えていると、真吉の手が頭の上にそっと乗せられる。真吉はしばらくお逸の髪を撫でていたかと思うと、瞬く間にお逸を引き寄せ、腕の中に包み込んだ。真吉の大きな手が更に宥めるようにお逸の頭を撫でる。
 真吉はよく、こうやって、お逸の髪を撫でた。もっとも、二人だけでこうやって逢うこと自体が少ないのだから、滅多とあることではないのだけれど。
 お逸は、真吉に髪を撫でられるのが好きだ。その撫で方はまるで兄が妹に対するような無造作なもので、その仕草だけを見ていれば、二人が本当に兄と妹なのだと勘違いする者もいるかもしれない。それほどに、真吉のお逸に対する態度に、男の欲望めいたものは感じられない。お逸にしてみれば、それが安心できると同時にほんの少し物足りないようにも思ってしまう。そんな風に考えてしまう自分を、はしたなく許せないものだとも思う。
 真吉は、お逸の髪をいつものようにくしゃりと撫でた後、少し躊躇うそぶりを見せた。訝しげに見つめるお逸の瞳は、どこまでも無垢であどけない。
 次の瞬間、咄嗟に真吉の顔が近付き、お逸の額に軽い口づけを落としていた。愕きに眼を見開くお逸を切なげに見つめる真吉の行動はそれで終わらなかった。真吉の唇がそっと降りてきて、お逸の唇をかすめたのだ。まるで触れたか触れないかのような、羽根のように軽い口づけ。それでも、お逸には確かに真吉の熱くてしっとりとした唇の感触が感じられた。
 予期せぬ真吉の行動に茫然とし、お逸はまるで惚けたようにその場に立ち尽くす。
 短い静寂が二人を包み込む。
 ひとときの後、お逸の頬がカッと熱くなった。
「済まん、やっぱり、嫌だったか?」
 気遣わしげに問う真吉に、お逸はふるりと首を振った。
「突然だったから、少し愕いただけ」
 お逸が正直に応えると、真吉は安心したように笑顔を見せた。
「丁度良かった、これをお前にやろうと思っていたんだ。枯れない中に渡せて良かった」
 真吉は懐から後生大事そうに何やら取り出す。眼前に差し出されたのは、梅のひと枝。
 ほんのりと薄紅に色づいた紅梅が幾つか可憐な花を咲かせている。
「ちょっと庭から失敬してきた。ま、日頃から何かと人使いの荒い楼主どのゆえ、これくらいは許されるだろう」
 なぞと自分勝手な理屈を述べながら、真吉はその一輪の梅をお逸の髪に飾った。
「簪なんか買ってやれねえから、今のところはこれで我慢してくれ。その中、まとまった金が入ったら、何か買ってやる」
「真吉さん、私―」
 お逸の眼から大粒の涙が溢れ、頬をつたう。今度は我慢しようとしても、涙は止まらなかった。
「どうした、こんなんじゃ、駄目か?」
 真吉の声に狼狽が混じった。
「そりゃアそうだよな。お逸はこれまで何不自由ないお嬢さま育ちで―」
 言いかけた真吉に、お逸は強い口調で言った。
「違うの!」
「―?」
 真吉が訳が判らないといった表情になっている。お逸はムキになったように言った。
「違うの、これは嬉し涙! 哀しくて、泣いてるわけじゃなのいよ」
「何だ、そうなのか?」
 真吉はそれでもなお納得できないといった顔だ。
「女は哀しいときだけでなく、嬉しいときも泣くのよ」