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天つみ空に・其の三~春の日~

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 最初は全身を黒く塗りたくっていたのだが、数日前、庭掃除をしていて、ぬかるみに脚を取られてしまった。丁度雨上がりで、庭があちこち、ぬかるんでいたのが禍したのだ。それゆえ、やむなく脹ら脛から下を水で洗い流すことになった。それでも人眼には触れないように気をつけていたのに、まさか、酔客がにやついた顔で自分の露わになった脹ら脛を舐めるように見ているとは気付きもしなかった。あれは、不注意だった。
 普段から迂闊に顔も洗えず、皆と湯屋にも行けない。着替えもいつも女中部屋に誰もいないところを見計らって、さっさと済ませなければならない。
 不便なことは極まりないけれど、それを辛抱すれば身の安全が守れるなら容易いものだ。
 まさか甚佐がお逸に並々ならぬ関心を持っているなぞ、お逸はむろん真吉でさえ予測はしていなかった。
 あれから四月、この花乃屋で二人は懸命に生きようとしていた。お逸は下女として一階の下女部屋で寝起きし、真吉は別棟の男たちの起居する部屋で暮らしている。真吉は若い衆の副領格として早くもここでの暮らしに馴染んでいるようであった。元々、大人しく口数も少ない男であった。かといって無愛想というわけでもなく、嫌みのない人柄で誰からも好感を持たれる
 よく気は付くし、なかなかの男ぶりで腕も立つとなれば、花乃屋の女郎たちもすぐに〝真さん〟と真吉に熱い視線を向けるようになった。殊に花乃屋の稼ぎ頭の花魁の一人東雲が真吉に夢中だという噂は、下女部屋にまで流れてきた。
 真吉も男だ、男なら誰もが憧れるという高嶺の花である太夫に色目を使われれば、心は動くだろう。それにひきかえ、自分なぞ所詮は貧弱で女らしい魅力は何一つない。お逸は、まだ真吉の気持ちを訊いたことが一度としてない。共に手を取り合って伊勢屋を出奔し、真吉は商人としての未来も何もかもをお逸のために捨てた。だが、そこまでのことをした男の心が果たして真はどうなのか―有り体にいえば真吉がお逸をどう思っているのかは判らない。
 伊勢屋を出る間際、女中のおみねが嘲笑混じりに言ったことがある。
―随明寺でのあなたたち二人を見てれば、あんたたちが惚れ合っているのは三つの子どもでも判ることよ。
 おみねが清五郎に真吉とお逸の仲についてあることないことを密告したため、憤った清五郎が嫉妬のあまり、お逸を手込めにしようとしたのだ。それまで信頼していたおみねに裏切られた心の痛手も大きかったけれど、おみねが去り際に投げつけたこの言葉は、お逸に更に大きな衝撃を与えた。
 自分の真吉への想いは流石に自覚しているが、真吉の方は、お逸のことをどう思っているのか。幾ら、おみねがあんなことを言ったとしても、その言葉をそっくりそのまま鵜呑みにはできるものではない。
 お逸にしてみれば、真吉に直接に問うてみたい気もするのだが、万が一、落胆するような科白を聞いてしまったらと思うだけで、到底訊ねる勇気は失せてしまう。真吉のお逸に対する気持ちを確かめ得ぬまま、下女部屋で朋輩たちが〝東雲花魁はどうやら最近―〟と、噂話に花を咲かせているのを聞けば、どうしても心は波立った。聞くまいとしても、彼女たちの話の中に真吉の名や東雲花魁の名が出てくれば、いやでも意識はそちらに向かう。そんな夜は、大抵、布団を被って一人で声を殺して泣いた。
 その日の朝も、前夜に朋輩たちの他愛ない噂話を聞いて、暗澹とした心を抱えたままだった。
―まさか、幾ら売れっ妓でも、そこまで人眼に立つことは、おいそれとはできないでしょ。おしがさんに見つかったら、それこそただでは済まないもの。
―それがね、要領の良い東雲さんのことだから、上手くやったって話。
―それにしても、大胆ねえ。真っ昼間から男を部屋に引っ張り込むなんて。
―そこはほら、お馴染みさんに手紙を届けて欲しいとか何とか用事をこしらえて呼び出したらしいわよ。で、後は―。
 お逸より三つ年上の女中が意味ありげに口をつぐむと、一方の年かさの女中が年甲斐もない声を上げた。
―いやだわあ。おさとちゃんってば。
 二人はなおも何やら囁き合い、しきりに声を上げて笑っていたが、お逸はもうそれ以上は聞いていられなくて、粗末な掛け衾(ふすま)を頭からひっかぶって寝たふりをした。
 翌日になっても、二人の話が耳奥で延々と甦り、頭から離れない。あんなのは所詮は噂話にすぎないのだ、真実かどうかしれやしないと思おうとしても、なかなか上手くはゆかない。たとえ真実がどうあれ、東雲花魁が真吉を自室に呼んだのは事実に相違ない。そこで何が行われたのか。美しい花魁と男ぶりも良い若い衆が二人きりで何をしていたのか、誰も知る由はない。
 お逸は心の中で大好きな歌を呟いてみる。

―ひさかたの天つみ空に照る月の
    失せむ日にこそ我が恋止まぬ

 これは万葉集の中に収められている恋の歌の一首である。ちなみに作者は不明、詠み人知らずとなっている。この歌は、亡き父が愛したもので、その昔、父が母に求婚した際にもこの歌を贈ったという想い出がある。お逸はその誰にも語ったことのない父の話を真吉に話したことがある。
 あれは随明寺の大池のほとり、燃え盛る紅葉の樹の下での想い出だ。あの日、真吉とお逸の距離は大きく近付くことになった。お逸にとっても生涯初めての恋にまつわる大切な想い出の歌となった―。
 真吉もお逸も同じ廓の内にいながら、滅多に逢えない。真吉もお逸もそれぞれの仕事を精一杯こなしつつも、互いのことを想い合い、新しい場所で懸命に生きてゆこうとしていた。
 この四ヶ月間でまともに話せたのはそれこそ、数えるほどのものだ。しかも、物陰でほんの一刻、人の眼を気にしながらの儚い逢瀬を持つのがせいぜいである。それでも良い、真吉の傍でその声を耳にできたなら、その顔を間近で眺められたなら。
 しかし、そのたったわずかの機会も現実にはなかなか巡ってこないのだ。お逸は時々、この苛酷な現実に挫けそうになる。真吉に逢えない淋しさに心が負けそうになったときは、大好きな恋の歌を口ずさむ。そうすると、不思議とざわめいていた心が落ち着く。真吉と二人きりで過ごしたあの晩秋の美しい光景が瞼にありありと甦り、いくばくかでも心が慰められるのだ。
 あの歌を心で唱えるだけで、身体の奥底から力が湧いてくるような気がする。自分の真吉への想いが消えない限りは大丈夫だ、自分さえ気持ちをしっかりと持っていれば良い。自分の心を、真吉の心を信じ続ければ良いのだと。
 だが、と、裏腹に、もう一人の自分がそっと囁きかける。果たして、それは本当なのかと。恋の歌に歌われているように烈しい恋に身を灼いているのは、もしかしたら、お逸の方だけなのかもしれない。真吉はなりゆきでお逸の手を取って逃げただけで、心の底ではこんな厄介事に巻き込まれたことを迷惑に思っているのではないだろうか。
 違う、真吉は、そんなことを考えるような男ではない。そう思おうとしてみても、どこかで否定し切れないのもまた事実だ。何と言っても、お逸はまだ真吉から一度として〝惚れている〟とか〝好きだ〟と言われたことがないのだ。真吉の本当の気持ちも確かめずに、この恋が自分の一人相撲ではないとは流石に言い切れなかった。