天つみ空に・其の三~春の日~
「―と、儂はこの頃、思うのよ。いや、正確に言やア、あの娘を最初に見た日にそう考えた。初めは色黒の救いようのねえ醜女だと思ったが、いやいや、そんなちょっと見にごまかされてはならねえと思ったのさ。あの娘の顔をよおく見てごらん。意外に整った眼鼻立ちをしている。誰もがあの色の黒さに惑わされちまうが、実際はそれほど不器量な娘というわけでもねえ」
「そう―ですかねえ。あのたどんがねえ?」
まだ首をひねるおしがに、甚佐はニッと笑った。
「まっ、百聞は一見にしかずともいう。儂の言い分が正しいかどうかは、お前自身の眼でとくと確かめてみるんだな」
甚佐は断じると、後はもう、おしがのことなぞ眼中にない様子で煙管をくわえた。さも上手そうに煙草をくゆらす甚佐に一礼し、おしがは楼主の部屋を出る。
楼主の話はどうにも信じがたいものではあったけれど、亡八としてこの花乃屋を切り盛りして既に二十年、その辣腕ぶりは、おしがとてよく知っている。甚佐の眼に狂いはない。―殊に女を見る眼にかけては。
―やれやれ、何だか知らないが厄介なものを背(し)負(よ)い込んだねえ。
おしがは内心、ぼやいた。ただの醜い炭団娘ならば、何のことはない、下女としてせいぜいこき使ってやれば良いだけだ。だが、甚佐の口ぶりでは、どうやら、あの娘を使える玉だと見込んでいるようだ。いずれは見世に出そうと算段しているのかもしれない。女郎屋にとっては売れっ妓は一人でも多い方が良いに越したことはない。
現在、花乃屋ではお職を張る花魁は二人、松風と東雲(しののめ)だ。松風は二十二歳、東雲は二つつ下の二十歳、揃いも揃って咲き匂う花のような妖艶な美貌だ。強いていえば、松風はどこか儚げな面立ちをしており、その楚々とした様子がたまらないという客が多い。一方の東雲は派手やかな美人で、険のある眼許が少々きつい印象を与える。が、東雲の馴染みは、この眼付きに惹かれるらしく、客の好みによって分かれるところだ。
とにかく、甚佐の女を見分ける眼は並大抵ではない。松風にしろ東雲にしろ禿の時分から眼をかけ、将来は花魁になるべく大切に育ててきた花乃屋の秘蔵っ子であった。そして、その二人の花魁になれるかどうかの器を見抜いたのは、他ならぬ甚佐その人なのだ。
甚佐があの娘について、そこまで言うからには、やはり、それなりの目算があるからに違いない。であれば、やり手としてこの花乃屋の女たちを監督するおしがもそのつもりでいなければならないだろう。
それに―。もしかしたら、面白いことになるかもしれない。あの醜い娘が花乃屋随一の売れっ妓なんてことにでもなったら、それこそ誰もが仰天して腰を抜かすだろう。
「さて、これからどうなることやら」
おしがは呟きながら廊下を歩いていった。
おしがが出ていった後、楼主の部屋で一人になった甚佐は難しい表情で思案に耽っていた。甚佐には実子はいない。女房は吉原の生まれ育ちで、引手茶屋の娘だった。幼い頃から見知った仲で、相惚れとなり所帯を持ったが、その恋女房は十年も前に流行病でさっさと逝った。
女房を喪って以来、甚佐はますます見世の切り盛りに心血を注ぐようになった。子どものおらぬ分、甚佐はこの見世を我が子のように思っている節がある。父からゆずり受け、自分なりに力を尽くして守り抜いてきた見世だ。見世の利益になるためには、どこまででも冷酷になれると自分でも判っている。
それは、人を売り買いする〝亡八〟と呼ばれ、血も涙もないと半ば蔑まれ、この吉原(なか)で廓を切り盛りしながら生き抜いてきた男のしたたかさであった。
「あの炭団のような娘に男の気を引く色香があるのか」
呟き、首を傾げつつも、存外にあの色黒の膚を白く塗り、眉をきれいに整えれば、使える(ものになる)のではないかと思ったりする。磨けば光る玉とまでは、いまはまだ言い切れはしないが、亡八としての甚佐の勘にしきりに訴えかけてくるものが、あの娘にはあるのだ。
甚佐は思案を巡らせつつ、煙草をゆっくりとくゆらした。しまいにポンと煙管を煙草盆に打ち付けて、独りごちる。
「まあ、良いだろう。今しばらくは泳がせてみるか。様子を見れば、自ずと正体も判るというものだ。これは存外に良い拾い物をしたかもしれんな」
甚佐は謀(はかりごと)が愉しくてならないといった顔で、愉快そうに声を上げて笑った。
花乃屋で下女奉公をするようになって、はや四月(よつき)が過ぎようとしている。お逸にとっては父の死、長年住み慣れた家や肥前屋というよりしろすべてのものを失った年が終わり、新年を迎えていた。幼い頃から父の良き理解であり友人であると心からの信頼を寄せていた伊勢屋清五郎、その清五郎が思いもかけぬ二重人格者であることも判った。表向きは静謐で思慮深い、やり手の商人、だが、裏の顔は冷酷非情どころか、カッとなれば常軌を逸した行動に出る人物だと知ってしまったのだ。
お逸にとっては、一度にあまりにも多くのことがありすぎた年が終わった。だが、年が変わっても、お逸の周辺には何の変化もない。
ただ毎日、判で押したような日々が流れているだけだ。早朝、まだ遊女たちが客と共に眠っている時間には起き出し、掃除洗濯、三度の飯の支度と時間に追われるように働きどおしだ。陽が落ちてもなお働いて、漸く女中部屋に帰れるのは深夜になってからである。
しかし、仕事の辛さは、お逸にとってはさほど問題ではない。確かに大店の一人娘として父親に溺愛されて育った身には、今の下女奉公はこたえる。が、生来、働き者であり根が素直で呑み込みも早いお逸は、教えられたことはすぐに理解し、記憶する。他人のいやがる仕事でも進んで引き受けるゆえ、先輩である年上の女中たちから重宝がられ、可愛がられた。
荒れたことなどなかった手には、早くもヒビやあかぎれができていたが、その痛みも我慢はできる。お逸が心底辛いのは、真吉に思うように逢えぬことであった。
判ってはいる。たとえ逢えなくとも、こうしてすぐ近くにいられるだけでも幸せなのだ。これ以上の贅沢や我が儘を言えば、仏罰が当たるかもしれない。
お逸が下働きの女中となったのは、他ならぬこの見世の主人甚佐の鶴のひと声
―しようがねえな。この器量と歳では禿にもなれやしねえ。せいぜいが下働きってところだろう。
によるものだという。むろん、お逸はこの科白を直接に聞いたわけではなく、やり手のおしがから聞かされた。要するに、救いようのない醜い娘だから、女郎として見世に出すわけにもゆかないし、仕方なく下女として使うかということだ。甚佐は真吉の用心棒としての腕を高く買っている。恐らくは真吉を手放したくないがために、一緒にいるお逸をも仕方なくお情けで置いているといったところだろう。
その甚佐の意向は、むしろ真吉やお逸にとっては、してやったりという感がある。なにしろ、二人ともに甚佐にそう思わせる―お逸を醜女だと思わせるために―一芝居打ったのだから。真吉の提案でわざと炭で膚を黒く染め、形の良い眉毛を太く濃く描いたのだ。元々の眼鼻立ちは隠しようもないけれど、たったそれだけで他人はお逸をとんでもない醜い娘だと思い込むようになった。
作品名:天つみ空に・其の三~春の日~ 作家名:東 めぐみ