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天つみ空に・其の三~春の日~

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 おしがは花乃屋の遊女を統括・監督する任を負っている。おしが自身もかつては女郎であったが、引退後は身を寄せる場所とてなく、そのまま廓暮らしを続けることになったのだ。
 流石におしがも今回ばかりは客が悪いのだとは承知しているらしい。が、ふっと口をつぐんだかと思うと、お逸を怖い眼でねめつけた。
「だが、お前にも落ち度はある。確かにお前の仕事はこの廓を隅から隅まで磨き上げることには違いないが、何もわざわざ客の眼に付くようなヘマをするこたアないだろう。下女は遊女とは違う、男の眼に止まるような時間に、のこのこと姿を現すのが悪い。美味しそうなご馳走が眼の前に出てきてごらんな、誰だって味見してみたくなるのは人情ってものじゃないかえ。マ、旦那さんはお前には下女働きくらいしかできないだろうっておっしゃってたけど、お前に食指を動かす変わった男もいるってことが、これで判ったねえ」
「本当に申し訳ございませんでした。これからは十分気をつけます」
 お逸はうなだれる。畳に端座して、両手を揃えて付いて頭を深々と下げた。ここを追い出されてしまったら、もう、どこにも行く当てはないのだ。何より、真吉と離れ離れにはなりたくない。
 お逸は、江戸でも指折りの大店にして老舗の肥前屋の一人娘であった。しかし、去年の秋、父仁左衛門が商いに失敗、多額の負債を残したまま、突然亡くなってしまった。借金のかたに吉原に連れてこられるところ、父の友人であった伊勢屋清五郎がすべての負債を肩代わりした上に、お逸を引き取ってくれた。
 だが―。現実はそうそう甘くはなかった。最初は養女に迎えるつもりだと聞いていたのに、お逸は清五郎の妻として伊勢屋に入ることになった。しかも、清五郎はお逸には何もしないと約束しながら、突然、手込めにしようとしたのだ。
 お逸は伊勢屋の手代頭真吉と共に店を出た。そして、逃げ込んだ先がこの吉原遊廓であったというわけだ。
「まア、判ったらそれで良い。とにかく、今後はくれぐれも人眼には立たないように気をつけておくれよ。今回は何とか穏便に話し合いが済んだから良かったようなものの、これが向こうにごねられ続けて事が広まれば、うちの見世の信用にも関わることだから」
 おしがの言い分はもっともだ。遊廓とて客商売、登楼する客あってこそ初めて成り立つ商いなのだ。見世の者がその大切な客の信用を損ねていては商売にならない。
「判りました」
 お逸は悄然としてやり手部屋を出た。おしがの言うことはもっともだと納得はできるけれど、それでも哀しかった。そもそも吉原に潜入しようと言ったのも真吉だし、お逸の身に危険が及ばないようにと膚を黒く染めることを勧めたのも真吉の思案に他ならなかった。
 お逸自身、そこまですれば―故意に醜くしていれば、遊廓でも目立たず済むと安心し切っていたのだが、それでも、お逸に眼を付ける男が存在したのだ。清五郎の毒牙を免れ真吉と二人でやっと辿り着いた場所、それが吉原だったのだ。だが、やはり、どこまで逃げても、逃れ得ぬ自分の宿命なのだろうか。
 つい一刻ほど前のことを思い出して、お逸は身を震わせる。欲望に濁った眼でお逸を眺め、嫌がるお逸を我が物にしようとした男。あの男の眼や醜く歪んだ顔には見憶えがある。そう、伊勢屋清五郎がある夜、突然、豹変したときのことだ。
 父の長年の友人であり、また自分の窮地を救ってくれた恩人として尊敬していた清五郎。その清五郎が別人のように血眼になって、お逸に襲いかかってきた。今日、お逸に乱暴しようとした男は、あの夜の清五郎とよく似た表情をしていた。
 お逸の眼にまたしても涙が溢れ、頬をつたい落ちる。とにかく、おしがに命じられたように人眼に立つことは極力避けなければならない。ここを追い出されてしまったら、真吉とは一緒にいられなくなる。真吉と離れ離れになったときのことを想像しただけで、お逸は気が狂いそうになる。
 やっと見つけた居場所なのだ。お逸は自分に言い聞かせながら、そっと指先で涙をぬぐった。

 その同じ頃。花乃屋の入り口を入ってすぐのところにある楼主の部屋では、おしがが甚佐に事の次第を報告している最中だった。
「うむ、とにかく、お前さんの機転で事を荒立てずに済んで良かった」
 甚佐は小さく肩をすくめた。
「それにしても、最近の客はどいつもこいつも廓遊びの常識ってものを心得ない輩が多いな。敵娼がいる客が他の女郎に手を出すのも法度だし、あまつさえ、それが商売女ではなく同じ見世の素人女だっていうんなら、尚更悪ィ」
「そのくせ、やっこさん、自分が悪いなんて、これっぽっちも思ちゃアいないんですよ。どうやら、まだ、あのたどんに未練があるようで、治療費なんか要らないから、代わりにたどんを一度で良いから抱かせろって最後まで煩くて。全く、しつこいったりゃ、ありゃしないですよ」
 おしがは、呆れたように言う。実際、この話を丸くおさめるのはかなり骨折りだった。何しろ、相手に常識とか廓遊びの心得といったものがてんで通じない。仮にも小店とはいえ表店を一つ構えて切り盛りしてきた商人だ。廓内だけではなく、世間では守らねばならない最低限の仁義というか筋があることは知っているはずなのに、まるで三つの子どもでさえ言わない無茶を平気で言う。
「ですが、旦那。あたしゃア、少し愕きました。あの炭団娘に眼を付けるお客がいるたア、流石に思いもしませんでした」
 それは、おしがの本音だった。身体付きだって、およそ貧弱な、女らしい魅力は何一つないあの子どものような娘のどこに、男はそこまで惹き付けられたのかと疑問にすら思う。
「おしが、お前は、あの娘の顔立ちをよくよく見たことがあるかね」
 唐突に問われ、おしがは眼を見開いた。
 甚佐がニヤリと笑う。
「お前さんはこの廓にとっては、なくてはならない存在だ。そのことは儂も認めるが、お前さんの悪いところは一つ、物事を何でもパッと見ただけの一瞬で判断してしまうことだろうね」
「旦那―」
 おしがが甚佐の眼を見て呟く。
 甚佐がおもむろに傍らの煙草盆を引き寄せた。愛用の煙管は日本橋の名だたる店で特別に作らせた品である。その煙管に火を付けながら、甚佐は低い声で言った。
「お前はあの娘をひとめ見た瞬間、色黒の醜い小娘だと決めつけた。いや、実際、誰だって、そう思うには違えねえ。それこそ炭団のように真っ黒で垢抜けない。長年、色んな娘を見てきた楼主の儂でさえ、この娘はおよそ女としての魅力は何一つ備えてはいないと思ったほどだからね。どんなに救われない器量の女でも、磨けばそれなりにはなるし、どこかに一つくらいは男を惹き付けるものがあるはずというのが儂の信条だし、事実、そう思って花(う)乃(ち)屋の妓(こ)らには接してきたつもりだ。その儂が、あのたどんは駄目だと思った」
「じゃあ、旦那、やはり、あの娘は見込みがないってことじゃないですか」
 おしがが我が意を得たりと直截に口にすると、甚佐は片頬を歪めた。どうやら、これが考え事に耽るときの癖らしい。
「いや、それは、とんだ早とちりじゃねえか」
 〝え〟と言いたげに、おしがが眼を見開く。
 甚佐はここでもまた皮肉げな笑みを浮かべた。