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天つみ空に・其の三~春の日~

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《其の壱》

 一人の男が鼻歌を大声で歌いながら廊下を歩いている。ここは江戸は花の吉原、上は本籬の大見世から下は羅生門河岸の最下級の女郎屋まであまたの見世がひしめく一大歓楽地帯である。この見世は中では中規模どころの格を誇り、本籬には及ばないが、それなりの格式を持つ半籬〝花乃屋〟だ。
 お店者風のこの男は年の頃は三十代半ばほど、どこかの小体な店の主人といったところか。その稼ぎから考えても、このような半籬での遊興は滅多にできるものではない。覚悟を決めての一大散財のはずで、その嬉しさからか相当酔っぱらっているらしく、呟いているのは歌というよりは、酒の熱に浮かされた酔っぱらいのたわ言のようだ。
 金はそこそこ持っているが、廓遊びに必要な粋な心配りなぞ、およそ持ち合わせてはいない。ただ花の吉原できれいどころと一夜を過ごすことに浮かれっ放しで、それこそが男の甲斐性だと思い込んでいるような男だ。このような男が遊女から好かれるはずもないのだが、そこは女郎のこと、女の方も商売と割り切って、表向きだけは愛想良くあしらってくれるものだから、ますます良い気になっている。
 時刻はそろそろ昼近くになろうとしていた。あまりに羽目を外しすぎて、一夜を過ごすどころか、流(いつ)連(づけ)までしてしまった男も流石にそろそろ帰らねばならないと思案し始めていた。婿養子の彼は所帯を持って十年になるが、いまだに気の強い女房に頭が上がらないのだ。結婚して十年、初めての吉原遊び、しかも流連である。夜が明けるまでは、それこそ女の柔肌に包まれ、夢のようなひとときを過ごしていたものの、障子の外が明るくなるにつれ、流石に現実を認識せねばならなくなってきた。
 女房の怒った鬼のような形相がふと眼裏に浮かび、男は、瞬間的にぶるっと身を震わせた。良い歳をした男がみっともないこと、この上ない。女房の顔を思い出した刹那、浮かれていた気分もしぼみ、心も萎えてくる。初会でいきなり流連をすること自体が廓では野暮と見なされかねない行為で、本当の通人であれば、初会は暁方にあっさりと帰るのが常道だ。
 それだけでもはや、敵娼(あいかた)の気持ちを醒めさせるに十分であった。いつも尻に敷かれっ放しの男は、女房の貌を思い出し、すっかり興醒めした気持ちで廊下を辿る。ふと、前方で一生懸命に廊下拭きをしている女の姿が眼に入った。いや、女というよりは、まだ少女といった方が良いだろう。男の位置からでは女の後ろ姿しか見えないが、尻や腰回りなども細く、貧弱だ。
 人目を気にしていないのか、着物の裾を端折って、せっせと廊下を拭いているせいで、脹ら脛が露わになっている。そこだけ白い膚がハッと眼を射るようで、男は舐めるような卑猥な視線で女のむき出しになった脚を眺めていた。
 男は唾をゴクリと呑み込んだ。視線が白い脚に釘付けになり、眼を離すことができない。
 それでも女は男の不躾なまなざしに気づくこともなく、一生懸命に雑巾をかけている。
 女が立ち上がった。見れば、脇に小さな盥が置いてある。そこで雑巾を洗うつもりなのか、盥に近づいたその時、男は女を背後から抱きすくめた。
「―!」
 女が悲鳴を上げた。無理もない、突然、見も知らぬ男に後ろから襲いかかられれば、愕かない方が不思議だ。
 男は女を自分の方に向かせ、その顔を覗き込んだ。思ったとおり、まだ十四、五のものだろう。男のいちばん上の娘は今年、十になる。その娘と変わらない歳だ。女―娘は随分と色黒だった。先刻眼にしたばかりの眩しい膚の白さが嘘のように顔は浅黒い。
 だが、大きな眼は涼しげで吸い込まれそうだし、眼鼻立ちは整っている。男は憑かれたように、娘の形の良い唇を見つめた。
 まずは、このみずみずしい唇を味わってやろうと男が顔を近付けると、娘は咄嗟に顔を背けた。酒臭い息を吹きかけられた娘は、たまったものではない。嫌々をするように首を烈しく振りながら、暴れた。
「いやっ、放して」
 娘は、自分の抵抗が男を余計に煽ることにも気付かない。懸命に逃れようと渾身の力で抗うのを、男は両手で娘の頬を包み込み、無理に顔を自分の方に向けさせた。
 娘の怯え切った瞳に涙が滲んでいる。その粗末な身なりから、女郎でないことはすぐに知れる。大方は下働きの女中だろう。
「なかなか可愛い子じゃないか。少し色黒だが、身体は存外に白いのかもしれないねえ」
 男は先刻見た吸い付くような白い膚を思い出し、卑猥な笑みを浮かべる。この娘を裸にしてみたい、一糸まとわぬ姿で褥の上に横たわっている姿を見てみたい。肌理の細やかな膚はさぞかし触り心地が良いに違いない。身体の方はまだまだ未成熟のようだが、それはおいおい、入念な愛撫を加えてゆくことにより成熟してゆくだろう。
「良い子だから、大人しくしなさい。廓で働く女は皆、客の言うことに逆らってはいけないのではないのかな? お前はどうやら女郎ではないようだけど、楼主には私から後でうまく話をつけてあげるから」
 言い聞かせるように耳許で囁く声がうわずっている。だが、娘は泣き叫びながらも烈しい抵抗を続けた。
「良い加減にしろッ、お前は客の言うことがきけないのか」
 怒鳴った男が拳を振り上げようとしたその時、娘が両手で男の胸を突き飛ばした。
 無様にも男はその勢いで後方にひっくり返り、尻餅をつく。
 娘はその隙に逃げるように階段を駆け下りていった。茫然と娘の消えた方を見つめていた男はややあって立ち上がろうとし、ツと顔を歪めた。どうやら、腰を痛めてしまったらしい。
「全く、この廓では使用人にどういう躾けをしているのやら」
 男は腹立たしげにぼやいてみたものの、自分の方が素人娘にいきなり襲いかかったことなぞ端から頭にない。女郎が客を拒んだのであればともかく、いくら廓に住まっているからといって、ただの素人娘を情欲のまま思いどおりにしようとしても、あっさりと靡くはずもないのは判っていそうなものだが。この場合、どう考えても、男の方に非があることを、この男は全く理解していない。
 男はそれでもなお、聞くに堪えない文句を並べ立てていた。

 その日の昼下がりのことである。
 花乃屋のやり手の部屋で、お逸は、やり手のおしがからみっちりと絞られていた。というのも、昼前、いつものように花乃屋の廊下という廊下をすべて拭いて回っていたお逸は、二階で酔客に絡まれ、危うく乱暴されかかった。その客と揉み合っている中に、客を思いきり突き飛ばしてしまい、そのせいで客が腰を痛めてしまったのだ。
 危ういところを逃げ出したお逸は事なきを得たのだが、客は相当な立腹のようで、とりあえずは若い衆が駕籠を呼んで男の家まで送り届け、鍼医者を呼ぶことになった。幸いにもたいした怪我ではなく、治療にかかった費用はすべて花乃屋がもつということで話のかたはついたという。
「まア、悪いといやア、いきなり素人女に手を出そうとした客の方が悪いのは判ってはいることだけどね。全く、無粋にも程があるってえんだ。女郎だって、そんな風にいきなり押し倒されちまったんじゃア、その気にもなれやしない。ましてや、おぼこな素人娘に無体な真似をするなんざァ、あたしも長年ここでやり手をしてきたけど、そんな不心得者の客はいなかったよ」