忘れていた風景
「本当に可愛いかどうか、見に行くよ。だけど、云っておくけど、やっぱり……まあ、いいや。でも、云っちゃおう。ずっとね……やっぱりよそう。あとで、云うよ。云わないかも知れないな。云いたいけど云えないことって、長い人生にはたくさんあるね。それを云っちゃあおしめえよって、そういうことは、実に多いね。そういう台詞を隠しながら、人間は生きて行くものなんだね。ちょっと一杯やっちまったぜ。
情けない父より」
街の紅葉を眺めながら、二度、電車を乗り換えた。駅前は不景気ということばとは裏腹に、
かなりの雑踏となっている。はしゃいでいる若い者もいれば、やっと歩いている老人もいる。早くもクリスマスツリーらしきものが店頭を飾っていたりする。若い頃、この街へはよく訪れた。気に入ったジャズ喫茶があったからだ。有名な音楽評論家が経営する店だった。今で云う、ライブハウスである。
世界的に有名なジャズドラマーと、トイレで肩を並べたことがあった。その巨人が叩くと、日本人ドラマーの二倍の音をその黒人は奏でた。
駅前広場にタクシーが二重の輪を描いている。
「ありがとうございます。わたくし、三毛猫交通の早川学が安全にお送り致します。どちらまでいらっしゃいますか?」