忘れていた風景
中野は一旦横の脱衣室に入って裸になり、そこにあったタオルを腰に巻いて硫黄の香りが漂うバルコニーに出た。彼は露天風呂の外のスペースで木の椅子に座り、シャワーを浴びてから身体を洗った。檜の香りの石鹸が、彼を喜ばせた。
中野が熱めの濁り湯に浸かって最高の気分で紅葉の山々を眺めていると、唐突にバスタオルを巻いた美里が現れた。
「お父さん、気持ち良さそうね!」
中野は想像を絶する事態に驚嘆した。
「えっ!……ちょっと……」
「あんまり嬉しくって、ことばもない?」
美里はひどく明るい笑顔を見せている。
「これじゃドッキリカメラだよ!心臓が止まったよ」
中野はうろたえながら、背後に置いていたタオルを取って腰に巻いた。
「入っちゃうよ。文句ないよね」
「文句はないけど、何か……」
美里も濁り湯の中に入った。ふたりの間には二メートル近くの距離がある。
「やっぱりことばが出ないのね。素直になりなさいよ」