忘れていた風景
彼女が店に来るようになってふた月めが過ぎる頃、中野が彼女の専属、という形が定着した。彼がオーダーを取りに行くと、里子はいつもどもりながら注文をし、必ず顔を紅潮させた。
ほかの従業員たちの意見もあって、中野は彼女に見染められたことを意識し、そして、惹かれていった。
中野はチケット制でクロッキーもできる美術研究所を、週に三日は訪れていた。クロッキーというのは、速写という意味のことばだった。裸婦モデルのポーズを見ながら、通常は五分か十分でクロッキー帳に線で描く。コンテという、粉っぽいクレヨンのようなもので描くのが普通だが、木炭や鉛筆で描いても良い。中には毛筆で描く腕達者な者もいた。
或るとき、そこに里子の姿を発見した中野は、ひどく驚かされた。彼女は中野に気付いていない様子だった。
クロッキーが終わって外に出たとき「こんにちは。わかりますか?」と、中野は水色のワンピースの彼女に声をかけた。ほかの女性は誰もジーンズだったので、その服装はかなり印象的だった。
「……びっくりしました!あなたも?」
里子の表情は驚きの大きさを表していた。全く意外な場所で、意外な人物と会ったという反応だった。