忘れていた風景
「そうですね。今度、一緒に描きに行きましょ」
「展開が速いね。我々の出る幕はないわな」
神風氏は顔をしかめながら云った。
「ユウが居るわよ。忘れないでね」
神風氏に向かって云った女性が笑っている。
「良かった!救われた」
全員が笑った。この瞬間、緊張が解けたようだった。
ミーちゃんが立ち上がって料理を調達してくると云った。
中野も立ち上がると、ミーちゃんは座って待っているようにと云った。
どうしてなのだろう。中野はずっと昔のことを思い出した。
三十年近くも前、彼は恋人と同棲していたことがあった。その恋人は里子という名前だった。原島里子は写植のオペレーターだった。出会った頃、中野はピザの専門店でアルバイトをしていた。ウェイターだった。
そこに里子が毎晩来ていた。静かな娘だった。ひとりで来ているのだからそれも当然なのだが、注文をするときの話し方が控えめで異常なほど遠慮がちな印象だった。
平日の、毎晩のことだった。ほかのウェイターやウェイトレスたちには、里子は不評だった。彼女は中野にしか注文しなかったからだ。