忘れていた風景
「今、思い出したことがある」
「どんなこと?」
「昔飼ってた猫の名前がね、なぜかミーちゃんだった」
美里は「そう」と云ってちょっと笑った。そして、笑顔で手を振りながら人の流れにまぎれて消えた。
そのきれいで賢い黒虎と白の子猫は、小学生だった中野が遠足へ行く朝、車に轢かれて死んだのだった。中野はそれだけは云わないつもりだった。
ホームで電車を待っていると、木枯らしのような冷たい風が吹いた。美里の姓を尋くのを忘れたことに中野が気付いたのは、電車に乗り込んでからだった。
*
早朝の気温はかなり低くなって来ていた。その割に水は意外と冷たくない。ありがたいと、中野は思う。真冬はセームを絞るときが一番辛い。彼は洗車をしながら美里の顔を思い出していた。
「どうしたの?ロングの客乗っけた?」
いつも洗車の合間に話をする眼鏡をかけた乗務員が訊いた。六十五歳を過ぎているらしいのだが、そんな歳には見えない男だった。
「ワンメーターばっかりで、疲れた」
「機嫌が良さそうだったから……」
眼鏡の男は洗車しながら笑った。
「とんでもない。最悪だったね」
中野は車の周囲を回り、ホースからの水をタイヤにかけていた。
「じゃあ、何で?」
「……ああ、最近できた彼女を思い出してたから……」
車内から重いゴム製のフロアマットを引き出してアスファルトの地面に置いた。