忘れていた風景
数分後、中野は笑顔に戻って云った。
「そのときは五人でも十人でも、産んでもらうよ。でも、一度に産まれたら困るけどね」
彼はそう云うと里子の肩に腕をまわした。
里子はその翌日、アパートに帰らなかった。中野にとって、その事実は非常なショックだった。その翌日も、彼女は帰らなかった。
里子は安曇野の生家に戻ったのではないかと、中野は思った。だが、彼女を追って行くだけの経済的余裕はないのだった。家の所在地も知らなかった。
その翌日、彼女が勤めていた写植の会社に電話で問い合わせてみると、出勤しているが仕事中なので電話口に出すわけには行かないと、事務員らしい若い女の声が冷たく云った。
その翌日、昼休みの時間に電話を入れたが、食事のために外出しているという。
どこで寝泊まりしているのかを事務員に訊くと、彼女の叔母の家だが住所と電話番号は教えられないと云われた。
アルバイト先のピザの専門店で、
「彼女、来なくなったね。どうして?」
と中野は尋かれたが、応えられなかった。
中野は夜中まで街を彷徨い歩いた。彼は死を決意し、港まで歩いた。しかし、飛びこむことはしなかった。まだ可能性があるような気がしたからだった。