錆色ノスタルジア
「孝造の身体がここにあるということは、飛ばすのは精神、もしくは魂だけかの。んー、術式が定まらん。鈴音、お主この本に纏わる『曰く』か何か知ってはおらぬか?」
「曰く? それなら知ってるよ」
「そうか知らぬか。まあどうせ期待なぞして……知ってるだとっ!」
「なんか凄く失礼だよっ!」
いや、うん。失礼なのは至極承知。だが、しかし、本音というのは隠し切れぬもので、それも日頃の言動ゆえだと思ってほしいところだ。
ぷっくりとふくれる鈴音を宥めすかし、話を聞く。
「えーっとねぇ、製本に関してはあんまり詳しくはなかったんだけど、その本の経緯については色々。さっき言ってたミクロネココンとかいう本を作ろうとして表紙だけは用意されたんだって」
なんか嫌に可愛いらしい名前になっている。
「だけど、本の中身自体は作られなくて、結局前頁白紙の本が出来上がったとか」
要は計画倒れというものの一つの典型となったモノだろう。
「問題はこの後。イミテーションとして古書店に売られたこの本はある日を境に持ち主を転々としだすワケ。途中までは偶然だったんだけど、ある日からそれは必然になった。最後の偶然になった男がね、この本を抱えて死んでいたとか。この本に『私は深き海に沈む』と書き残して」
深海、か……。
なるほど、それからこの本は何人も飲みこみ、その魔力を強めていったのだろう。
大体の経緯は分かった。キーは『私は深き海に沈む』だろう。この本に込められた念が、この本とこの本の持ち主だった者の望む世界を繋げてしまったのだろう。
魔導書の内容自体には魔術的意味は存在しない。重要なのは、その言葉に込められた意味であり、それがその魔導書が引き起こす魔性を物語るのだ。
この本はその典型で、文字通り読んだ者を『深海に似た世界』へと飛ばしてしまうのだ。もしかしたら深海そのものかも知れないが、まあこの際関係はない。飛ばされたのが魂だけだからだ。後は戻ってくる為の道しるべをこちらで用意するだけだ。
問題はこれだ。宮崎桜花のような異界異世界のエキスパートではない自分だ。どうしても失敗が付きまとう。
大村孝造の身体がこちらに残っているのはありがたい。物質そのもののテレポートと精神体のテレポートとではエネルギー量は段違いだ。物質そのものの異界へのテレポートは物理法則に関する障害をもろに受けてしまうからだ。
「ふむ。まあ、なんとかなるかの。ちょっと部屋に戻るから、孝造を頼むよ。カズちゃん、荷物持ちを頼むよ」
そう言って、私はカズちゃんを連れて一〇三号室を後にする。
「孝造も不運じゃの。全く、何ゆえにあんなのを部屋に住まわせているやら……」
「前に一度聞いたんだよ。そしたら大村君、『人生には色々あるんです』って疲れた顔で言ってたよ」
それは多分『憑かれた顔』でもあるんだろうのぉ。
部屋に戻ると、私は押し入れの中に突っ込んだ棚から本を数冊手に取る。
「それも魔導書?」
確かに、素人目にはそう見えるだろう。だが、こっちは違う。
「魔術書だよ。同じようで、明確に違う。魔導書は本そのものが力を持っているが、魔術書には魔力は宿ってはいない。要は技術書みたいなモノだよ、魔術書というのは」
「ああ、なるほど。大体の本は、本自体より本の内容に価値があるけど、希少本なんかは、本の内容よりその本の存在に価値がある。それと同じかな?」
「そういうことじゃの」
こういうところも好きなところだ。察しが良いのは美徳だ。それでいて、無知であるのは話していて気持ちがいい。
最後に一冊、魔導書を抱える。
「それ、去年の……」
魔書・夢現。去年、この辺りに蔓延した眠り病の犯人だ。この本を元にマーカーを作るのだ。
「去年は大変じゃったのぉ。やることは単純なのに、数が多かったからの」
「今回とは全く逆だね」
そういえば、それで死にかけた者も一人いたな。名前は……まあいいか。
魔術書数冊と魔導書一冊、そして百枚ばかりのコピー用紙を抱えて部屋を出る。
「……そういえば、あの本に書き込まれた一文。気になるね」
むぅ、ワザと気にしないようにしていたのに。
「偶然じゃろうて。多分、関係はないよ」
「でも、偶然は必然って、前に言ってたよね?」
痛いところを突いてくるのぉ。
「前回の夢現事件も最後の一人は深海に旅立った。今回もまた、大村君は深海へと旅立った。これってどういうことかな?」
「……もしかしたら、引き寄せられてくるのかも知れないの。魔は魔を呼び寄せる。特にこの土地は曰くが多すぎるからの……」
この魔女に引き寄せられて、深い海に縁を持つモノが寄ってきてしまうのだろう。
――全くもって、難儀な話だ。