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錆色ノスタルジア

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 事が起きたのは昼過ぎだった。蝉の鳴き声の中、カズちゃんと一緒に素麺を啜っていた頃だ。鈴音が突然転がり込んできたのだ。
「どうしようっ! ネネさんっ!」
「五月蠅いのだよ。ただでさえ蝉が五月蠅いのに、これ以上に五月蠅いのが増えるのは困るのだよ」
 せっかくカズちゃんとラブラブにゃんにゃんしていたのに……好事魔多し。
「緊急事態っ! 緊急事態なのよぅっ!」
「自分で解決すること。以上っ」
 そう払い除け、テレビのグラサン司会者に目を向ける。
 絶望のポーズを取る鈴音。凄くウザい。
「えーっと、どうしたのかな?」
 鈴音のそんな取り乱し様に見るに見かねて、カズちゃんはそう鈴音に問い掛けた。その問い掛けに沈んでいた鈴音も笑顔を取り戻す。まるで地獄に仏を見つけたかのような笑顔だ。
 全く、こんな奴放っておけばいいのに。それにしても、困ってる人を放っておけないなんて……やっぱりカズにゃんは愛いのぉ。
「こーぞーがっ、こーぞーが私の魔導書を読んじゃったんだよぉっ!」
「「魔導書?」」
 これはまた、厄介事をこの女は持ち込んでしまったらしい。

 一〇三号室に行くと、家主の大村孝造が畳の上で寝ていた。ジョギングの時の恰好のままだ。
 手に抱えているのは、何かの革で装丁された本だ。どうやらこれが今回の主犯か。
「これが魔導書?」
 そう言って、カズちゃんがその本を指差す。迂闊に触らないのがこの子の良いところだ。
「そうだの。どれ、一つ」
 魔導書へと目をやる。本は大村孝造の手に張り付いて離れようとしない。
 無理矢理剥がすことは可能だろうが、その場合大村孝造が目を覚ますのだろうか。
 魔法というのは厄介だ。専門の魔術師でも所見ではその正体を気取ることすら難しい。そう、所見であるならば、だ。
「これは……」
 本の装丁に覚えがあった。一昨年の話だ。この辺りで起きた眠り病の主犯に纏わるモノだろう。
「まさか、人の皮じゃないよね?」
「ちょ、ちょちょまってよっ! これそんな物騒なもんなのっ!」
 この本をどこから持ってきたのだろうか。そもそも渦中の人物がそんなことを言うものではないだろうに。
「いや、これは豚の皮だの。元ネタはネクロノミコン辺りかの。あれを真似たジョーク品が魔力を持ったのだろうね」
 人の皮を使った本を人皮装丁本と呼ぶ。もしこの本が人の皮を使った装丁本であるなら、被害はこの比じゃなかっただろう。
 人とそれ以外の動物とでは、本来含有する魔力量が違う。その理由は魂なのかそれとも人という生き物の持つ『意思』などの感情が理由なのか、はっきりしたことは分かっていない。ただ、感情のエネルギーが最も大きな生き物は間違えなく人間だろう。そのエネルギーが魔力に変わるのであるならば、人が既存の生き物の中で最も魔力を含有している、という理由になるだろう。
「この本はね、『異界』へと開いた者を呼び寄せる本なのだよ」
「一昨年の事件とどう違うの?」
 カズちゃんはいいところで疑問を口にする。
「魔導書というのは基本的には二つに分類されるのだよ。一つは『魔へと導く書』。これが一昨年の事件の原因だの。もう一つは『魔を導く書』。一昨年はここいら『一帯に異界を導いた』のだけれど、今回は『大村孝造を異界に導いた』のだよ」
「つまり、大村君はもうこの世界にいないってこと?」
「大体そんな感じだの。効果の範囲は狭いモノの、効果自体はこっちの方が強力なの。なんせ呼び戻すのに世界一つをまたがないといけないわけじゃし」
 要は、あっちから来てくれるのと、こっちから出向くエネルギーの差だ。
 あっちから来てくれる分なら、こちらは異界に移動する分の労力を被術者のサルベージへと充てられるが、こちらがあちらに出向く場合はあちらへと移動するエネルギーが必要となる。今回、大村孝造はあちら側へと移動させられてしまった為に、異界への移動のエネルギーと大村孝造のサルベージのエネルギー、両方必要になるのだ。
「そんな、異界とか異世界を跨ぐって、かなり大変なことでしょ」
 ふむ。この女、その辺の造詣はそこそこあるのか。話が早くて楽だ。
「大変じゃよ、本来ならかなり骨のいる作業だよ」
「それじゃあどうすんの? このままじゃこーぞー、ずっとこのままだよぅ……」
「偶然に頼れば、異界というのは意外に簡単に行けてしまうものなのだよ。年間行方不明者、家出人捜索届受理数は十万件に上るというの。そのうちいくらが神隠し――異界に行ってしまったのか。見当もつかんよ」
「そういえば、宮崎さんもそんなことを言ってたね。行くのは簡単だけど、同じところに帰ってくるのは至難の業だって」
 あの子の場合は少しばかり事情が違うわけだが。まあそのうち話すことになるだろう。
「まあ、そういうことじゃの。意図して狙った異界に行くこと。それがこの場合の問題じゃの」
「虱潰しに行くってのは?」
「馬鹿なことを言うんじゃないよ。一体幾つの異界があると思う。億を超え、京を凌駕し、那由他を超え、更に無量大数を超えた無限の領域なのだよ? しかもその無限の世界から孝造のいる世界を見つけたとして、そこからまた無限に広がる世界の中から元の世界に戻るには……宇宙が何度転生しても無理じゃろうな……」
 数が大きすぎて混乱してしまったのだろう。鈴音は頭を捻らせる。
「それに、異界や異世界へ行くというのは、かなりの偶然に頼らなければならぬからの。そんなぽんぽんと異界の門が開くことができる魔術師を私は知らんよ」
「じゃあどうすんのよぉ。このままじゃこーぞー、死んじゃうよぉ」
 どうするも何も。
「この本を使えば狙った場所に行けるじゃろ。何寝ぼけたことを言ってるのだよ」
「そ、そうね。そうだったわ。いやー、気付いてたよ? 気付いてたけどさ、ここは魔女様が本当に役に立つのか気になるじゃない」
 役に立たんのはあんただ。
「まあ、行くのは簡単なのじゃが……」
 問題は戻ってくる場合だ。先ほど言った通り、行く分には問題ないが、帰ってくるには無限の世界からこの世界にピンポイントで戻って来なくてはならない。
 先ほど、私は異界にぽんぽんと行ける魔術師を知らないと言ったが、何事にも例外がある。彼女は魔術師ではないが、異界、異世界のエキスパートだ。この問題なら私より彼女の方が順当な配役だろう。
「あの……桜花ちゃん……今日もどっかに」
「しぃっとっ!」
 思わず頭を抱える。なんで必要な時にいないのだあの子はっ!
「“『バハムート』が私を呼んでいる”と言い残して飛び出して行きました」
「あの子は一体何を目指しているのか……」
 中二病のようでそうでないのが恐ろしいところだ。
 しかし、当てが外れたのはでかい。そうなると、『マーカー』を作らないといけなくなる。
 要は、この世界に戻ってくるための目印だ。あの魔導書はある世界に対しての行き先を示している。それと同じ要領で、こちらの世界への行き先を示した魔導書が必要となる。
 双方向に移動できる魔導書も少なくないが、この本の場合は一方通行だ。なので、この本の先にある世界から戻ってくるための本が必要となる。
作品名:錆色ノスタルジア 作家名:最中の中