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錆色ノスタルジア

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 私が初めて月を見上げたのは、この世に生まれ落ちて気の遠くなるような月日が経ってからだった。
 そこから見上げる月は暗かった。知識だけで知っているモノを私は夢見る。
 それは憧憬なのだろう。私にとってそれは手にも掴めず目にも見えないモノだった。
 太陽の光すら届かない暗い世界だ。月の光なら尚更だ。
 だけれど、ある日の夜。その時だけは、その場所に月の光が揺らいで差し込んだ。
 ふと思う。もし、この光を追って行ったなら、そこに何が待っているのだろうかと。
 しかし、追って行って無事で済む道理はない。もしここから抜け出した時、自分はどうなってしまうのだろうか?
 悩んでいたら、その光は少しずつ弱弱しく揺れ始めた。
 まずい、このままここで悩んでいたらあの光が消えてしまう。そうなると、私はもう月の光を見ることができなくなってしまうのではないだろうか?
 悩んで、悩んで、覚悟して。その光を追うことにした。その光を追っていくと、一つの世界の終わりが訪れる。
 ああ、なんてことだ。なんて綺麗な空なんだ。深い海よりも明るくなお暗い空。その空にぽっかりと浮かぶ丸い船。
 ――そこでは、兎が仙薬を搗いていた。

 目を覚ますと、私、夢見ヶ崎ネネの隣には同居人のカズトが眠っていた。相変わらず女の子みたいな顔だ。いつも私はこの寝顔を見たまま朝を寝過してしまうのだ。
 このままではいけない。いけない気がする。たまにはカズちゃんより先に布団から出てみることにしよう。
 カズちゃんを起こさないように寝床を抜け出す。牛乳が飲みたいのだが、残念ながら冷蔵庫の中にはなかった。飲めないとなると余計に飲みたくなる。
 ポーチの中のガマ口を開けると、中には牛乳が買える程度には小銭が入っていた。
 よし、買いに行こう。この幼児体型の改善の為にも、牛乳は必要だ。魔法にだってできることとできないことはあるのだ。
 この辺には二十四時間営業しているというコンビニに喧嘩を売っているようなスーパーがある。そこまでいけば、こんな小銭でも買えるだろう。
 寝間着にしているYシャツの上から、オーバーオールを着る。長い髪の毛に軽く手櫛を入れて乱れを正すと、髪ゴムでまとめて前に流す。
 部屋を出ると、ほとんど同じタイミングで一〇三号室の方向から戸が開く音が聞こえた。私たちが入居しているのは二〇一号室で、一〇三号室から最も遠い。だが、戸の開く音がしっかり聞こえてしまう。それはこのアパートの特徴という名の欠陥の一つである。
 最近入居してきた新人だろう。そういえば、毎朝どこかに出かけているようだが、何をしているのだろうか。
 そう思って新人の姿に目をやる。新人は上下ジャージスタイルで、首にはタオルを掛けている。このアパートの中では一番背が高く、毎年記録を大幅に更新しているという。高校入学して初めての夏だというのに、既にその身長は日本人の平均身長を超えているのだから、末恐ろしい話だ。
 新人は庭に出ると、いきなりラジオ体操を始めた。二番まで済ませると、今度はストレッチを始める。
「毎朝やってるのかの?」
 その意味不明さに遂に声を掛けてしまう。
「あ、おはようございます」
 新人の名前は大村孝造。高校一年だ。
「ええ、毎日やってますよ。この後軽い筋トレとジョギングもあります」
 まだ日も昇りきってないような時間に起き出して体操ストレッチ筋トレにジョギングを済ませる高校生は見たくなかった。彼の身体のでき具合はこれが原因なのか。一応この程度でもこなしていれば自然と身体は出来上がるモノだ。もしかしたら彼の高身長高成長率もこれが原因なんじゃないだろうか。
 春の事件から脈々と増え続けるこの男に対しての謎の一つが今、私の中で解決されたのだ。
「それじゃあ、行ってきます」
 筋トレを済ませると、孝造は駆け出す。
 孝造を見送ると、私もスーパーへと向かう。歩いて十分と少し程の所にそのスーパーはある。どうせなら彼に頼んでも良かったのかもしれないが、ジョギングの邪魔になるのではないかと思うと、頼むに頼めなかった。
 スーパーへの道中、今度は孝造の同居人、鈴音の姿を目にする。
 毎夜毎夜どこかに出かけているようで、朝方になると孝造の部屋――一〇三号室の押し入れに潜り込んで泥のように眠るのが彼女のライフスタイルだ。
 彼女は妖怪だ。魔女の自分がそう判断するのだから、間違えはないだろう。胡散臭い女で、生傷が絶えない。ネネは自分のことを棚に上げて鈴音のことを『胡散臭い』と称するが、事実彼女に関しては謎が多い。
 妖怪であるが、なんの妖怪であるかもはっきりしない。彼女曰く『幽霊族』だとかのたまっているが、彼女のポニーテールが妖怪の気配を感じて逆立つこともない。
 彼女は何かを抱え込んでいた。本だ。とても古い装丁で、何かの皮でできていた。
 はてさて。どこかで見た覚えがあるが、それがなんであったかは思い出せない。
 思い出せないのだから、重要なことではないだろう。私はそう方をつけると、早々とそのことを忘れてしまった。
 今思えば、ここで思い出していれば後々面倒なことに巻き込まれずに済んだのかもしれない。

作品名:錆色ノスタルジア 作家名:最中の中