猫になって歩けば棒に当たる?
乱暴にお腹を持たれたぼくは肋骨が数本軋む音を聞いた。そして純君の前に下ろされる。
「勝手に……」
「動いたら……」
「ダメなんだからね!」
こいつ思いっきりヒゲ引っ張りやがった。なんて凶悪な野郎だ。数本抜けたかもしれない。シャルトーが怯えるのもわかってきた気がする。
それから純君はおもむろに顔を崩して、横にあるなにかのセットを取り出し始めた。
「やっぱり真っ白じゃつまんないよね! なに色がいいかな〜、うーん決めた! オレンジ好きだからオレンジ色にしよーと」
あ、え? おい、ぼくのお気に入りの白毛に何しようとしてやがる。その絵具でべたべたになった手でぼくをつ、つかむのか。うわぁやめろぉ。
「これで、こうして。なかなかうまくつかないな〜」
「フミャ――――」
「あ、あばれるなって! へっへーん、爪が届かない捕まえ方おねーちゃんに教えてもらってるから無駄だよー」
「ウニャ―――――――」
「おっとと、よーし足はぬれなかったけど、かんせー。あっ、イタッ! かみつきやがったなこいつ、うぁ、ち、血が出てきたよー、うわぁーん」
「フシャ―――――」
ぼくのお気に入りの真っ白な毛は無残にも安っぽい絵具で彩られ、鮮やかなオレンジが所々乱雑にちりばめられてしまった。
流石に最初は引っかいたりしたらまずいかな、生意気なりにも屋敷の息子だしなとも考えたけど我慢の限界。ぼくの誇りをあんな安っぽいもので塗り変えられるなんてごめんだ。
大音響で鳴き喚く純を心配したのだろう。女中さんらしき人と虎子望さんが慌ただしく部屋に入ってきた。
「まあ、ぼっちゃんどうしたんですか」
「あ、あの猫がぼくの指をかんだの」
「あら、見たことない猫。野良猫は入れないはずなのにどうして……」
「野村さんこの子は野良猫じゃないわ。昨日新しく猫神様が連れてきた子なの。ほらうちの首輪をつけているでしょう。それにしても……」
オレンジで汚れたぼくを抱きあげた虎子望さん。ああ、やっぱり純の奴と違って慈愛に満ち溢れた抱擁だ。
「純、猫はおもちゃじゃないと前にも言ったでしょう。お父様からも言われているでしょう猫は人間と同じ生命だって、あなたはお姉ちゃんにも絵具をぬるの?」
「う、ううん。ぬらない」
「お嬢様、ぼっちゃんも怪我をなされています。これくらいで……」
「わかったわ。野村さんは純の手当てをお願い。私はこの子を洗ってくるわ。早くしないと綺麗な毛が傷んでしまうわ」
「かしこまりました」
そう言ってぼくを抱え直し虎子望さんは純の部屋を出ようとしたのだがぼくはこのままでは引き下がれない。シャルトーのクッションを奪還するためにここに来たのだから。一心不乱にあのクッションのある所めがけて飛びだそうと懸命に手足を伸ばした。
「あら、そんなに動いたら落ちちゃうじゃない、ダメよ」
優しくなだめられ、痛くはないのだががっちりガードされてしまい動きが取れなくなってしまった。
「ミャ〜」
名残惜しくえんじ色を見送っていると神のご加護か虎子望さんがそちらに目線を移し
「あ、談話室のクッションじゃない! なくなったと思ったらこんなところにあったのね。もう勝手に持っていかないでよね」
とぼくを抱えている方とは反対の手でクッションをとり純の部屋を出た。おー、シャルトーよぼくはやってやったぞ! 実際にとってあげたのはぼくじゃないけど。
部屋の前ではシャルトーが不安と期待が入り混じった姿で待っていた。オレンジ色に変わり果てたぼくの姿を見てそれから虎子望さんの持つえんじ色のクッションを確認すると口元に薄い笑いを浮かべながらも目的の品を虎子望さんの細い指から奪い取り全力で逃げて行った。
「あ、シャルトーこら! もう! 今度はシャルトーがクッション持って行っちゃったじゃないの。でも先に君を洗ってあげなきゃだしね。もう今度見つけたらただじゃおかないんだから!」
今度は純よりも怖い相手を敵に回したようですよ、シャルト―君。
「あー、もう乾いてきてパサついちゃってる! 早くシャワーしなきゃね」
はい、早くこのファンシーな色を落としてくださいと願った。
家のお風呂を想像していたぼくはあまりの大きさに度肝を抜かれた。木目がくっきり確認できるいかにも高価そうな木の浴槽が大小二つ並んでいる。磨き抜かれ光沢を放つ床は油断していると滑って転びやすそうだ。それと十はあるシャワー。大パノラマで眺められる庭の湖。しかも入口には『使用人用』の札が置いてあった。ここの家族専用のものは見たこともないような珍しい功績とかでできているんではないだろうか。
「さー、早くしないと毛が傷んじゃうからねー」
虎子望さんは俺を下ろし『猫の道具』と書かれた棚から一通りの用具を出してきて、ゴトゴトとぼくの周りに置いていく。
――おいおい、猫の毛洗うのにそんなにいっぱいシャンプー的なものを使うのか。しかも使用人用と猫は風呂一緒なのかよ。ぼくの想像のグラフを1次関数曲線で上に行く屋敷である。
「あーあー。こんなにカチカチになっちゃった。落とすの大変かも」
適度な温度でぼくの身体に湯がかけられ全身が濡れていく。薄いオレンジ色のお湯が輝く床に染みを作って流れていく。
今度はシャンプーを身体の隅々までぬりこまれた。それから軽くこするだけでふわっと泡がたつ。ちょっと女の子チックな香りと絶妙な愛撫にぼくの思考と体は麻痺したのか、憧れの子に身体を洗ってもらっているというのに最初ほど体が硬直しなかった。むしろ情けないことに全身の力が入らなくなってきて、後ろ脚が誰かにそっと前に押し出された錯覚を受け、お尻を床につけてしまっていた。
「あ、もう! 座っちゃダメだよ。せっかくお尻も洗ったのに汚れちゃう!」
ぼくは虎子望さんに叱られたからではなく、気が付かない内にお尻を洗われていたことに驚いて覚醒した。
「よーし。シャンプー終わりー」
いつの間にか終っていたようだ。恐るべし猫が癒される猫癒しパワー。湯をかけられオレンジ色の泡とお湯がぼくの身体を滑り落ちては消えていく。
「次はリンスね。あ、このリンスじゃなかった。ちょっと待っててね」
終わりかと思ったら、まだあるのね。だいぶすっきりしたからもういいんだけど。
「あ!」
ツルン。ゴチン……
安っぽい効果音が聞こえてきた。軽い振動と鈍く痛そうな音のした方向に目を向けると、案の定虎子望さんが足を滑らせていた。のだがぼくの視線は薄い水色のワンピースの中から覗いている水色の三角の布に集中してしまった。
いや! これは不可抗力だ! 見たくて見たんじゃない! 今更遅いことはわかっていたが前足で目を隠すそぶりをした。
「いったーすべっちゃった。スズなにしてるの? 目にシャンプー入っちゃたかな。おっとリンスリンス。どれどれ見せてみなさい……」
ぼくがアワアワと目の周りをかいていたのを勘違いして虎子望さんが心配そうな顔を向けている。。心配なのはあなたの後頭部なんですけど。というか学校ではあんなにしっかりしてて隙が一ミリもないと思っていたのに私生活ではこんな一面も持っていたのか……。可愛いなあ。
作品名:猫になって歩けば棒に当たる? 作家名:月灯