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我的愛人  ~顕㺭和婉容~

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第十二章



 大連から旅順までは正味一時間。白玉山の西方の丘の上にある旧ロシアのホテルが粛親王府であった。
 顕㺭が運転する、甘粕が手配してくれた車の中で二人は終始無言だった。何故ならすぐ傍まで来ている別れに怯えて。
「あの赤レンガの洋館がそうだよ。きっと僕の異母姉、顕珊が迎えに出ているはずだ」
 森の中ひたすら車を走らせて次第に近づく壮麗な建物。顕㺭はそこから少し離れた所で車を止めた。王府の玄関前に一人の女性が出迎えに現れているのが、ここから小さく見えた。

「着いたよ」
 顕㺭は俯いて助手席に座る婉容に声をかける。
「顕㺭……いろいろとどうもありがとう。これを見て私を想い出して欲しいの。受け取って頂ける?」
 そう言って婉容は耳から翡翠のイヤリングを外し始めた。顕㺭は慌ててそれを制する。
「僕は他にもっと欲しいものがあるんだ」
 え? と婉容は驚いた眼差しを顕㺭に向けた。
「何かしら? 私、他にさし上げられる物なんて何も持っていないの」
 顕㺭は首を振って婉容の両手を握り締めた。
「君のとびきりの笑顔を。ずっとこの眸に焼き付けておきたいから」
「気障な顕㺭! そんなことよく恥ずかしげもなく言えるわね?」
 吹きだして婉容は微笑んだ。
「君のこと決して忘れない」
「私もよ」
 
 顕㺭の言葉がたとえ慰めであっても構わない。これを限りに二度と逢えなくとも、自分の事を忘れ去ってしまってもいい。今この時、この地で、この顕㺭と巡り合わせてくれた運命というものに、婉容は初めて心から感謝した。
 未来の満洲国執政夫人婉容の、その美しい顔に大輪の笑顔が咲き誇る。惹きつけられてやまない深い漆黒の瞳、紅く艶やかな唇から零れる皓い歯。自分の為だけに向けられる、蕩けるばかりの絢爛の笑顔に顕㺭は束の間酔いしれた。
「もう行くわ。独りで大丈夫だから」
 別れの言葉はどちらからとも切り出すことは無かった。出来ることなら、またいつかきっと逢いたいと、逢えると信じていたいから。
 婉容は自ら車を降りて歩き始めた。その毅然とした後ろ姿を顕㺭は、まるで半身を引き裂かれるような思いで見送る。

 いいのか、顕㺭? 彼女の真意は分かっているはずだ。彼女はお前の為に不本意ながらも歩いてゆく。敢えて困難で複雑な道を。
 黙れ、璧輝! 他にどうしろと? 自分に何ができる? 困難か複雑かは分からない。祝福と輝きに満ち溢れた華やかな道かもしれないじゃないか!
 己の中でこんな葛藤を幾度となく繰り返してここまで彷徨い続けてきた。この先自分はどうなるのか? どこに行き着くことになるのか?
 決まっているさ、そんなこと! 芳子、お前に残された道は唯一つ。清朝復辟、唯此れのみ! 一つの任務は完了した。さあ、行け、上海へ。思い悩んでいる暇は無い。次の仕事が待っている。

 遠くなる婉容。
 千々に乱れる思いを完全に断ち切った彼女は唯の一度も振り返らなかった。そして顕珊に導かれるまま、あっけなく巨大な粛親王邸に吸い込まれていった。