小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

我的愛人  ~顕㺭和婉容~

INDEX|13ページ/15ページ|

次のページ前のページ
 

第十一章



「婉容……?」
 驚いた顕㺭は慌てて涙を拭い、身体を捩って婉容を背中から引き剥がす。そして両手でその小さな顔をそっと挟んで上を向かせると、二つの黒瞳は溢れる涙で濡れていた。
「一体どうした? 身体がこんなに冷たくなって……」
 顕㺭は自分の軍服の上着を脱いで婉容に掛けてやり、肩を抱いてバルコニーから部屋の中へ戻ると、窓にしっかりと鍵をかけた。
「御免よ、窓開け放していて寒かったろ? シャワーを浴びたばかりなのに風邪をひいてしまう」
 主寝室に行き、未だ泣き濡れる婉容をベッドに座らせる。顕㺭は隣に腰を下ろして婉容の冷たくなった両手を握りしめた。
「……よ」
 俯く婉容が必死に言葉を紡ぐ。
「顕㺭と別れるなんて……嫌よ……」
「婉容……」
「ごめんなさい……偉そうにあんなこと言ったくせに……本当は執政夫人なんてなりたくないの! 清朝復辟なんて……皇后なんて……満洲国なんて……そんなものいらないわ! 顕㺭、貴方がいればそれでいい……ねえ……二人で何処か遠くに行きましょう! 私……私……初めて逢った時から顕㺭のこと……」
 婉容の唇を今度は璧輝の人さし指が塞いだ。
 思わぬ告白に顕㺭は戸惑いを隠せない。何故なら秘めたる想いは自分も同じ。婉容のその懇願の眼差しから一転して、驚いたようにじっと自分を見つめる童女のようなあどけない表情。伏せた濡れる睫毛、ほんのり紅い頬、震える細い肩、指に降りかかる微かな吐息……一挙手一投足総てがどうしてこんなにも美しいのかと、ため息が出るほどだ。

「僕にそれができるならとうにそうしていたさ! 僕が君を幸せにできるなら……だけど……僕は女で、日本人に踊らされる、しがない忘却の王朝の名ばかりの王女に過ぎない」
 最初の邂逅の一瞥から自分の心をあっさりとわし掴んで攫ってしまった貴女。身体の深奥から込み上げ、日ごと膨れ上がっていった、未だ嘗て感じたことの無いこの許されざる想いを抑えられずに、顕㺭は任務を忘れ、その華奢な身体を思わず抱き締めていた。
「顕㺭といればそれだけで幸せなのに」
「……そんな幸福は束の間の幻。婉容にはその手で確かに掴み取れる現実の幸福がある。一国の元首夫人となれるその身分をみすみす捨てることは無い。僕のことなんて忘れて新国家へ自由に羽ばたくんだ!」
 顕㺭の胸の中で婉容はただ首を横に振るばかり。
「顕㺭を忘れるなんて……そんなこと出来ないわ」
「婉容、よく聞いて。輝かしい未来の前で僕なんかに躓いたら駄目だ。君は確実に幸せになれる。僕は心からそれを願うよ。君の幸せが僕の幸せとなるのだから」
「私が満洲国の執政夫人になれば顕㺭も幸せになれるのね?」
「そうだよ、だから……」
 婉容はぴたりと泣きやんだ。
 彼女は知らないのだ……満洲国という新しい鳥籠を用意された自分は、決して幸福にはなれないということを。自分の望む幸せは既にそこには無いのだから。羽ばたくことなど出来ない。羽をむしり取られた飛べない鳥は、ただ単に清王朝から満洲国という得体の知れない鳥籠に移されるだけだ。
 苦く何度も噛み締めた諦観の念を脳裏で反芻する。
 定められた運命には逆らえない。
 多少の荒波や逆風があったとしても所詮自分の人生は人に操られる古びた船なのだ。

「……明日は早いのでしょう? もう休むことにするわ」
 上着を顕㺭に返し、ナイトガウンを脱いでベッドに入る婉容。
「とても寒いの……顕㺭、貴方のせいよ」
 ブランケットを掛けようとしていた顕㺭の手を婉容はしっかりと握りしめて言った。
「温めてくれなければ嫌よ」
 ベッドの中から哀願にも似たその黒耀の瞳でじっと見つめられたら最後、顕㺭は抗うことなど決して出来ない。黙って婉容の隣に滑り込むと、しっかりとその身体を抱き締めた。
 まるで氷の塊のように冷え切った、華奢な身体をすっぽりと両腕に包んで、誰にも奪われぬようこの熱い想いで融かしてしまえたらどんなにいいか!
「我儘を言ってごめんなさい……私は顕㺭を信じているのだもの、貴方の言うとおりにするわ」
 暫くして、顕㺭の胸に顔を埋めた婉容の耳に先刻のあの歌が聞こえてきた。
「その歌は……?」
「子供の頃母さんがよく歌ってくれた子守歌。もうずいぶん前のことなのに不思議と覚えているのさ」
「顕㺭はとても温かいのね」
「そう?」
「お願い。もう一度……いいえ私が眠るまでその子守唄聴かせてくださる?」
「いいよ……婉容」
 顕㺭の手が優しく婉容の背中を滑る。
 そのぬくもりを確かに感じながら、婉容は固く目を閉じて心の中で何度も何度も自分に強く言い聞かせた。
 ……貴方の幸せの為なら未知の世界にも懼れず生きていける。
   たとえこの身が二つの国に操られ翻弄されようとも。
   果てしない孤独が待っていようとも。
   ああ、貴方を想えばきっと……。