海人の宝
「以上のことを踏まえ、ブルーピースは米国本部を通じて、米国政府にこの滑走路建設から撤退するように要請すると同時に、連邦裁判所にて米国政府に軍事施設における環境保護を定めた国内法を適用して建設を中止させる訴えを起こします。これが米国内でのことなら、このような環境破壊は軍事施設といえども認められません」
情熱を込めて語るセーラの姿を見て龍司は思った。彼女のようなアメリカ人もいるのだな。
生物多様性という言葉が、ずっと印象に残っている。東京から沖縄に来て、一番気付いたのは沖縄の自然の豊かさである。よく珍しい生物を数多く目にする。例えば、浜辺を歩いていると、ごろごろとヤドカリが現れる。お握りを浜辺で食べているとサザエのような大きなヤドカリが、忽然と姿を表し手からこぼれたお握りの米粒を食べに来る。
湿地に行けば、片方の足だけがやけに長い蟹が現れ、その何か特定の機能性が形になった思われる生物の姿に感嘆した。何だか、不思議の国に舞い込んだ気分にさせられる。
そんな自然環境を守ることと、基地のない平和な沖縄を実現する願いを込めて、洋一をはじめとするテント村の活動家たちは、辺奈古の浜辺でのコンサートを企画し実施することとした。活動の宣伝や資金集めとしてのイベントでもある。
基地との境界である有刺鉄線フェンス近くのテントを設置しているところに代わりに舞台を設置して地元の歌手による民謡や楽曲を演奏するのだ。浜辺に座って聴く観客は数百人程度。「ヘナコ・ピース・コンサート」と銘打った。 沖縄に住む人や内地の人々、メディアの人々などを招待しての反基地PRキャンペーンの一環とした。
セーラも招待された。龍司も基地建設の被害を被る地元漁民ということで招待された。舞台が設営され、夕日が浜辺を照らす頃、コンサートは始まった。
最初は沖縄の民謡、島唄から始まった。民族衣装を身につけた老人の男性が沖縄の民族楽器である三線を奏で、夕焼けの浜辺にその音色と共に張りのある歌声を響かせた。セーラは感激した様子で観ている。
「はるばる数千マイルを飛んで来た甲斐があったわ。まさに異文化に触れたというような感覚ね」
と島唄を聴きながら言った。夕焼けに照らされるセーラの風になびく金髪と微笑む表情を見る。龍司には、それが、この上ない感動だった。
島唄は夕日に合うしんみりとしたものから、祭り的な陽気な曲調のものが演奏された。ウチナンチュウの観客は、自然に楽しんでいる感じだったが、龍司は楽しみながらも、聞き慣れない響きにやや退屈さを感じていた。
「夕日がとてもきれいね。流れる曲にマッチしているわ」
とセーラが言うので、龍司は、
「ああ、そうだな」
とにっこり微笑み言った。彼女がそういうのなら間違いないだろう。確かに夕日は美しい。彼女みたいに。
六月二十三日
この日は、沖縄中がしんみりとした雰囲気となる。それは、沖縄にとっての終戦記念日ともいえる米軍の沖縄本島上陸作戦攻撃の戦闘終結日である。
沖縄各地で慰霊祭が執り行われ、20万人以上もの犠牲者を追悼する。沖縄は太平洋戦争において、空襲だけでなく敵軍に上陸され、陸上での戦闘を体験した島である。
本土のために犠牲を強いられているという意味では現在も変わりはない。
辺奈古の基地計画もその一環なのかもしれない。辺奈古に移される予定の普天間海兵隊飛行場とはどんなところなのか、内地から来た活動家の人々が見学をしたいと申し出たので、車数台でツアーを組むことになった。ガイド役は洋一をはじめとするウチナンチュウたちである。
龍司も、この日は漁を休み、セーラと洋一の乗る車で普天間飛行場基地まで行くことにした。龍司は、沖縄に来てから一度も普天間基地に行っていないのでいい機会だと思った。
この日のツアーは、普天間を見た後に、首里城と南端にある平和記念公園を見学する行程となっている。
辺奈古から車で一時間、着いたのが普天間飛行場を一望できる嘉数展望台だ。ここは、基地の南側に位置して、階段を上った展望台から基地の滑走路と建物や敷地、そして、周辺の市街地や住宅地、海岸が見渡せる。
基地はまさに市街地のど真ん中にあった。見るからに危なっかしい。
一機の輸送機らしき飛行機が滑走路に着陸しようと近付いてきた。大きな騒音が辺りに響いた。この基地の周辺には九万人もの人々が住んでいる。これはうるさくてたまらないだろう。騒音がひどく、家の中で話しもできないという。
騒音被害以上に問題なのは事故の危険性だ。実際に基地近くの大学の建物に海兵隊のヘリコプターが墜落した事故が数年前に起こっている。その時は大学に人がいなかったため、建物の破損だけで済んだが、一つ間違えば大惨事になっていた可能性がある。
事故が起きた時、事故現場は米軍により立ち入り禁止となり、沖縄の警察は現場検証ができなかった。米軍が立ち去った後は、事故機の残骸や残骸は撤去された後であった。事故の証拠を残さないようにしたのだ。そのうえ、残骸が落ちた場所の土壌まで持って行かれた。後に、その場所では沖縄県の調査で高濃度の放射性物質が検出された。米軍は、そのことを追究されるまで、そんな物質を使用していたことを一切発表しなかった。
しかし、そのようなことは日米地位協定で合法とされており、米軍はやりたい放題なのである。
「信じられないわ。こんな町中に基地があるなんて。アメリカでは絶対に許されないことよ」
とセーラは驚きを隠せない表情で基地と周辺の街並みを見渡した。アメリカ人としては気まずい思いをしているのが見てとれる。
龍司は、ふと思った。しかし、なぜこんなに危なっかしいと分かるのに基地の周辺は、こうも密集しているのか。そもそも本土復帰前から、この基地は存在する。危険だというのなら、周辺が密集しないように行政でするようにできなかったのか。こんなに危ないのに近くに住みたいと思う人達も変だと。龍司は、それとなく洋一に、その疑問を訊いてみた。洋一は、
「ああ、基地周辺に住む人々は、そもそもは基地の中に住んでいた人々なんだ。米軍が入り込んできて銃剣とブルドーザーで土地を奪われたので、周辺に住むようになったのさ」
と答えた。
第二次大戦後、沖縄は米軍により占領された。旧日本軍の基地は、米軍により接収され米軍が使うようになったが、この普天間に関しては、元々は民有地だったのを米軍が奪い、居住者を強引に追い出し、そこに滑走路を建造して基地になったという歴史的経緯がある。国際条約でも占領軍による民間の財産没収は禁じられている。いわば不法占拠状態なのだ。普天間基地は、そのためもあってか法的に軍事航空基地としての扱いを受けていない。だからこそ、住宅地などを、かなり接近したところに建てることが認められている。
なるほど、この密集具合はウチナンチュウの米軍に対するレジスタンスの意味が込められているのか。