海人の宝
何でも、ブルーピースが日本において辺奈古の問題が持ち上がったことで調査を開始することを決定したとか。調査結果の客観性を強調するためにも、アメリカ人の海洋学者である彼女が筆頭役になったという。
仲間のスタッフは団体所有の船で、辺奈古まで来るはずだったが、到着時刻が遅れているらしい。なので、到着までの間、先んじて調査をしたいと願い出た。
「私はドクターだけど、セーラと呼んで、あなたをリュウジと呼んでいいわよね」
「是非とも」
さっそく友人になれた。
セーラはタンクなどの器具を持ち込みダイビング・スーツを着て漁船に乗り込んだ。その体の線がしっかりと見える姿には、龍司は激しい動悸を感じざる得なかった。
船は、イノーを超えかなり沖の方まで進んでいった。止まったのは、水深にすると三十メートルはあるところだ。このあたりは珊瑚礁が広がる場所だ。
セーラはマスク、シュノーケル、フィン、ウェイト、アクアラングなどを身につけ、水中に潜った。龍司は、浮上するまで待つことに。
数十分後、セーラが浮上してきた。船に上がり言った。
「思った以上に素晴らしいわ。絶対に守らないといけないわね」
実に美しいものを見たという感嘆の声だ。
「見て、仲間の船が来たわ」
セーラが指差す方向に「ブルーピース」と文字がペイントされた船が見えた。中型の船が航行しているが見えた。
漁船を船に近付けた。セーラが「リュウジ、あなたも一緒にどうかしら? 仲間を紹介するわ」と誘うので、漁船をボートにつなぎ止め、一緒に乗り込んだ。
中では、日本人と外国人のスタッフがいた。船は数十人以上が乗って生活でき、また、研究調査のための器具が揃っている。さすが、国際NGOだ。
セーラはTシャツに短パンという身軽な格好に着替え、仲間のスタッフを龍司に紹介した。ダイビングの手助けとボートまで連れて行ってくれたお礼に一緒に昼飯でもしないかと誘われ、遠慮なくテーブルを共にすることにした。
龍司の側に座ったのはセーラと、オーストラリア出身のマークとニュージーランド出身のジェフだ。
彼らと何気ない会話を始めた。龍司は、彼らがなぜ、この活動を始めることになったのか。どうして日本の沖縄で起こっているこの基地建設の問題に関心を持ったのかを訊きたかった、。
マークとジェフが環境問題に強い関心を持ったのは彼らの国の近海で日本が捕鯨をすることに強い憤りを感じたからだという。龍司は、それを聞いて、よく言われる「鯨はかわいくて知能のある哺乳類だから守らなければならない」という感情論ではないのかというと、彼らはそれは違い、捕鯨反対の理由は鯨が絶滅危惧種になっているから反対するのだと答えた。
日本人が捕鯨を伝統的な文化と考えているというのは誤りで、そもそも南極海の捕鯨が本格的に始まったのは一九六〇年代のことで、大型船を使って遠洋まで大型鯨を捕獲する方法が伝統文化であるはずがないのに、捕鯨を文化論にすり替え正当化しているのが実情だと主張した。伝統的な捕鯨は一部の漁村などで沿海の小型鯨を捕獲する程度で、そのことに関して敢えて反対はしていないという。また、日本の南極海の捕鯨は調査捕鯨の名の元、八百頭もの鯨を捕獲殺戮した上、鯨肉は商業用に販売していることから、不信感を国際社会に与えているという。
その捕鯨とこの辺奈古の海には意外な共通点があるという。それは、この海域を生息域とする海洋哺乳類ジュゴンが滑走路建設により生存の危機にさらされているからだと。ジュゴンは人魚のモデルとなったマナティと同族の熱帯に住む海洋哺乳類で、南はオーストラリアから生息し、沖縄はその生息域の北限である。
建設のため埋め立てられるエリアはジュゴンが餌とする海草が生えているところで、餌場を失えば絶滅の危機に瀕してしまう可能性がある。すでに沖縄のジュゴンは、かつての乱獲により生息数が推定では五十頭未満までに減っており、保護の対象とすべきであると考える。
その他、この海域には貴重な珊瑚礁や、そこを住処とする熱帯性の魚類や甲骨類が存在し、独自の豊かな生態系を維持している。地球上で、最も生物の多様性が豊富なのは陸上では熱帯雨林で、海中では珊瑚礁地帯である。それらは、とてもデリケートであり、一度破壊されると、それは元に戻すことができないものである。
龍司は、なるほど、と思った。漁師をしている身からすると漁場を壊されるというデメリットが先立つが、その漁場の豊かさを維持するためには環境保護活動が欠かせないということなのか。
昼飯をご馳走になった後、龍司は漁港に戻り安次富に、彼らの話していたジュゴンという言葉が気になり、そんなもの見たことあるのか訊いてみた。龍司は、まだ見たことがない。
「ああ、白い大きい奴だな。随分前に見たことあるよ。だが、最近はあまり見ないな」
と答えた。ほう、そんなのが実際にいるのか。
二週間後、セーラを含めたブルーピースの面々は、名古市市役所近くにある市民会館で、辺奈古沖の環境調査の報告会を市民向けに開いた。龍司もセーラに会いたくて参加した。
「辺奈古海域の生物多様性」と題した報告書が配られた。
この二週間の間、ブルーピースがダイビングなどで海中を観察。珊瑚礁では北限となるアオ珊瑚があり、熱帯魚ではクマノミのような近年激減している種が生息している。また、サンプル採取の結果、すでに三十以上の新種が辺奈古の海域で発見されたという。その中には、この海域のみに生息すると思われる生物もあり、海域の環境が変わることは、それら生物に多大な悪影響をもたらすと警告。
最も注目されるジュゴンは、二週間の調査では見つけられなかったが埋め立て予定エリアに生える海草に明らかにジュゴンが食した痕と思われるはみ痕が発見され、ジュゴンの生育環境に危機が迫っていることを示している。
滑走路建設による埋め立ては、生息域を埋め立てる以外に潮流を変えることにもつながり、影響は辺奈古だけでなく周辺海域にも及ぶ恐れがあるという。
辺奈古のような生物多様性に富んだ海は、地球上で稀なものといえる。南太平洋の島、ガラパゴスと同様、いわゆるホット・スポットだ。多種多様な生物を保護することは人類全体の利益に叶うものである。海においては、周辺海域の生態系維持に貢献しており海産物資源の保全には必須だ。
しかし、そんな生物多様性も今は、地球上生物の歴史以来、最大の危機に瀕している。それは恐竜が絶滅した時代を上回るものだ。何と年間4万種もの生物が絶滅しているといわれる。それら生物の中には癌やエイズのような不治の病を治す特効薬の成分がふくまれているかもしれない。また、絶滅を放置することは、生態系を壊し地球環境の破壊につながりかねない。これは地球温暖化と同様に、人類の存続を脅かすことにつながる。生物多様性の維持は、単なる感傷的な自然保護ではなく人類の幸福及び存続に直接結びつくものだと考えるべきだ。報告会の結びとしてアメリカ人海洋生物学者のセーラ・フィールズ博士が発言した。