君の名前
第2章 幼馴染
衣美華には、琴尾加奈子という幼馴染の友人がいる。加奈子の祖父は筝曲の大家で、そのルーツを探ると近世前期の八橋検校の創始した流派の一つにたどり着くらしいが、真意は定かでない。加奈子の父親も祖父の後を継ぎ、今では教え子は数十人に及ぶ。
一人娘の加奈子にとって、古いしきたりを重んじる実家は息が詰まる。OLをしている加奈子は、早く家を飛び出して独立したいと思っていた。その一方で両親は良い婿が来て琴尾の姓を継いでもらいたいと望んでいた。
プロポーズを受けた翌日、衣美華は加奈子をランチに誘った。
「ってわけで、プロポーズの返事は保留してるのよ」
「へえー、上板橋の芝田衣美華か。おもしろいね」
「ちょっと、まじめに考えてよ。そんな理由でプロポーズされてもさあ」
「うん、わかる。名前は重要だよ」
「加奈子だって前にお見合い断ったじゃない?」
「そう、大場さんって人ね。だって結婚したら大場加奈子、大バカな子なんだもん。抵抗あったよ」
二人は変に納得しながらコーヒーをすすった。堅苦しい家から飛び出したい加奈子ではあったが、祖父の代から築きあげられた「筝曲」という日本の伝統文化を守っていくべきだということも同時に理解はしていた。
加奈子とランチを終え、帰宅する道すがら衣美華はもう一度冷静に考えてみた。武士は決して悪い人間ではない。ユーモアはあるし優しいところもある。
「でもなあ、いくらなんでも上板橋の芝田衣美華はないだろ」
それほどこだわることじゃないかもしれないが、やっぱり引っかかった。それをプロポーズの理由だと堂々と言ってのけるところも気に入らない。
電車に揺られながら、衣美華はふと考えた。
「武士と加奈子、これってありじゃない?」
武士の実家は北海道で呉服問屋を経営している。お琴といえば和服だ。武士は次男坊だし、場合によっては加奈子の実家にお婿に入ることだってあり得なくもない。お笑い番組が好きな加奈子にユーモアのある武士は案外合うかもしれない。
衣美華は自分にプロポーズしてくれた男を幼馴染の女友達に譲ろうとしていることに、少なからず罪の意識を感じた。でもこの話はきっとうまく行く、という根拠のない自信もあった。
家に着いて、衣美華は早速加奈子に電話をした。善は急げだ。
「そういうわけでさあ、加奈子、芝田さんと付き合ってみない?」
「うん、それも面白いかもね」
加奈子の満更ではなさそうな返事に、衣美華は少し驚いた。いくら幼馴染とはいえ、プロポーズしてきた相手を自分にどう?と言われているわけである。ふつうは面食らうだろう。
数日後、衣美華は武士にプロポーズの返事をした。
「ごめんなさい、武士さんが嫌いなわけではないのよ」
「じゃあどうして?」
「方向性がちょっと違うというか…」
「上板橋の芝田衣美華、最高だと思うんだけどなあ」
「ま、まだそんなことを…」
「え、何?」
「ううん、何でもない」
さすがにがっくりしている武士を見て、衣美華は申し訳なく思った。
「あのね、武士さん、そのかわりと言ってはとっても失礼なんだけど…」
衣美華は加奈子の話をし始めた。プロポーズを断った相手に幼馴染の女友達を薦めている自分の神経の図太さに呆れるどころか感心していた。
武士は呆気にとられていた。