扉を開けたメール
衝撃の告白
花山が総務の持田慶介に呼ばれたのは、午後五時になる直前だった。
花山は急いで会議室へ行った。そこには営業部長の田川もいた。
「ああ、花山君。この前の安岐さんから連絡があったよ。インドネシア工場に設置するものは、
中国のメーカーから購入することになるかも知れないそうだ。値段がうちの半分以下じゃあ、
ぐうの音も出ないよ」
田川の表情は厳しいものだった。
「花山君。開発設計部員として君を採用しておきながら、こんなことは云いたくないけどね、今は受注が落ち込んでいるんだ。今後の見通しも明るくないのでね、購買部のほうへ下りてくれるかな?受け入れの人間が入院して、人手が不足してるんだよ。来週からそっちのほうで頑張って欲しいんだ」
持田も困惑した顔つきでそう云った。
花山は憤りを覚えた。
「私が以前勤めていた会社に、品物を売り込むために、私を採用したんですね。それだけのために。入院した人の病気が治ったら、またほかへまわすんでしょう。仕方がない。普通のまともな会社に就職が決まるまで、購買部で働くことにしますよ。それでよろしいでしょうか。失礼します」
花山が立ち上がるとき、終業時刻を報らせる音が聞こえた。すぐに更衣室へ行き、彼は着替えた。廊下を急ぎ足で歩いて行った。いつもの階段がひどく長く感じられた。何人かの社員に会い、引きつった笑顔で挨拶した。
花山はお好み焼き「ともちゃん」へ自転車で向かった。ともみと敬子に「かなのじいじ」こと、
穂高聡介のことを話すためだった。マイフレンドになった穂高とは、何度もミニメールのやり取りをした。
穂高は陶芸家としては大家と呼ばれるような人物であることが判った。ネット検索でも穂高の実績を確認した。経済的に困るような暮らし向きではないことが、容易に想像できた。穂高聡介の妻である正子も、温厚な人柄ではないかと思われる。アートフラワー教室で教えているらしい。
住まいも広いようだ。息子夫婦も同居していた家である。勿論かつては孫も共に暮らしていた。工房が在り窯が在る。敷地は二百五十坪だという。
「ともちゃん」の近くのカフェで、花山は敬子と向き合った。
「華奈という名前になってしまいますが、どうでしょうか。受け入れてもらえば、ともみさんは戸籍を獲得できます」
「ありがたいわね。そのお話がうまく進めば、わたしも、ともみも、安心して暮らせるようになるわ」
「但し、そうなれば頻繁に会うことはできないでしょうね」
「そうでしょう。でも、仕方がないわね」
敬子は泣きだしそうな顔で云った。
「先方は本当のお孫さんかも知れないので大至急会わせて欲しいと云ってます」
「いつ頃会わせますか?」
「来週の土曜日にオフ会という集まりを企画します。飲んで食べて歌う会です」
「親睦会ですね」
「SNSサイトに『かなのじいじ』というハンドルネームの人を発見しまして……」
「まるで何を云ってるのか判らないわ」
花山は噛んで含めるように、サイトの説明をした。
「出会い系じゃないのね?」
「違います。殆どの人は健全な心の持ち主ばかりです。それで、その会場を『ともちゃん』にしたいんです」
敬子は眼を丸くした。
「うちで?!」
「そうです。土曜日のお昼から、お店が貸し切りという形になります。その際、ともみさんと穂高さんを引き合わせることになります」
敬子は考え込んでしまった。
「こんばんは。お元気そうですね」
間島がタクシー会社の紺色の制服姿で現れた。花山の隣に座った彼は、敬子に訊いた。
「オフ会の話、聞き終わりましたか?」
「ええ。伺いました」
「お願いできますか?」
と、花山。
「人数はまだはっきりしませんけど、是非、お願いします」
と、間島。
「何時までですか?」
「土曜日も開店は夕方五時でしたね。その時間までです」
と、花山。
「カラオケつきの、普通の宴会ですね?」
そのあと費用やメニューの相談をして話がまとまった。幹事は間島ということで、コミュを立ち上げることになった。
「敬子さん。ともみさんの体調はどうですか?」
間島が訊いた。
「多少は後遺症があるみたいですけど、毎朝の散歩が身体にいいみたいよ。少しづつ元気になってきている気がするわ」
「そうですか。この前の温泉の効果も、あるのかも知れませんね」
「来週の土曜日まで、一週間ですね。よろしくお願いします」
花山は笑顔で云った。
「こちらこそ、よろしくお願いしますね」
*
「かなのじいじ」こと、穂高聡介とは、花山がパイプ役を続けていた。ミニメールのやり取りを始めてから十日が過ぎたとき、穂高は衝撃的な告白をした。
「私の息子の聡一は釣り好きでした。今から十八年前の或る日曜日、息子は車で出かけたのに翌日になって釣竿とクーラーボックスだけを持ち、徒歩で帰ってきました。聞いてみると路上駐車していた車を盗まれたのだと云っていました。息子は警察に盗難届を出したのですが、
ついに今日まで、その車は発見されていません。実を云うと、そのときの事情は、その後十一年経ったときに判りました」
それに続く何通かのミニメールに、その続きが記されていた。
今から十八年前の春の、或る晴天の日曜日だった。穂高聡介の息子の聡一は、その日の未明に車で出かけた。釣り好きの彼は一人で釣りに行ったのである。だが、危険な岩場で頑張ったものの、潮回りが悪かったのか、正午を過ぎても小魚一匹さえも釣れなかった。
聡一は腹を立て、酒を飲みながら日没まで粘ったが断念するしかなかった。車を運転して帰宅する途中の街で、聡一は幼い男の子を抱えて走ってきた男をはねてしまった。
午後七時頃のことだった。
停めた車から、飲酒のために覚束ない足取りで出た聡一は、事故の被害者たちの傍にいた男に、急いで救急車を呼んで欲しいと云い残してその場を去った。
聡一が日中釣りをしていた場所は、人里から離れていて街灯もなかった。そこに戻った聡一は、ライトが割れた車を断崖から海へ棄てることにした。下り坂の先の急カーブの外側に、
ガードレールが破損しているところがあった。聡一が車の外からギヤシフトをDレンジ入れると、ゆっくりと無人のままの車は動き出した。車は次第に加速して行き、破損してガードレールがないところから、五十メートル下の暗い海面に向かって墜ちて行った。
それは、宗山公康と長男の孝太が同時にひき逃げされて死亡した日のことだった。
それから四年後に、聡一の愛娘の華奈が行方不明になったのは、天罰だったのかも知れなかった。更に決定的な天罰が下ったのはその十一年後のことだった。高速道路上の思いがけない事故で、聡一は妻の礼子と共に悲惨な死を迎えた。その直後、穂高聡介は息子が秘していた日記で、一部始終を知ったのだった。