花、無、世界
ふ、と記憶の世界から目の前の風景に意識が戻る。
屋上の地面に座り込んだままの私は、空を見て落ちていきそうだと思った。怖い。けれど、高揚する。解放感。
そして、また地面に視線を戻し、私に散らされた枯れた花の残骸を見た。植木鉢は壊れたまま。時は戻らない。時は止まっている。
また、記憶に泳ぐ。
花一輪。
あの日。
無の話をしたとき、藤は手折った花を私に手渡した。たった一輪の花。ひとり。私は手の中の花を見つめたまま立ち尽くす。この花をどうすべきか、どうしたいのか自分でも分からなかったから。
私は花が苦手だけれど、捨てることもためらわれた。藤の目がそれを許さないように感じたから。それに、この花はこのまま捨てられたら死んでしまうだろう。そう思うことは恐怖だった。死は、死は嫌だ…。嫌だ。
藤は穏やかだけれど、いつもどこか怖い瞳を秘めているように思えた。それは私の脆弱な心が作り出すまやかしかもしれないけれど。
藤は私に呪縛を与えたのだ。一輪の花の呪縛。永遠と無から逃れられない愚かな私への花むけ。
私はこの花が藤のようだったらよかったのにと思った。いいや、すべての花が藤のようだったらいい。藤は花のようだけれど、花とは異なる面をたくさん持っていた。人だから。それは当たり前だけれど…。
実際の藤の花はどうだか知らないが、人間の藤は「綺麗」だ。そう言いながら綺麗とはどういうことかよく分からない。それでも、淡い光に涙が出るような感情を覚える。悲しいのかな…、分からない。でも、きっと、それが綺麗のはずなんだ…。
けれど、藤は人だ。花のようで、全く花とは違った生き物だ。
藤は深い瞳を持っている。淡く穏やかで、冷たく鋭い刃のような瞳。
なぜか私にはそう思える。
ねえ、花って何。人って何。藤に聞いてみたいな。
藤は優しいから私の望む言葉をくれるかもしれない。
藤は賢いから真実の言葉をくれるかもしれない。
藤は怖いから私を切り裂く言葉をくれるかもしれない。
藤は光を信じているって、花の命を望んでいるって、私はそう思いたいんだろう。藤のことを思うと私は悲しいから。綺麗って思うから。
藤は、永遠を渇望し無を望む私を冷静に見ていた。哀れむでもなく、同調するでもなく、温度のない声でそっと囁く。どれだけ近づいても決して心には触れない指先。けれど、そこに微かな光を感じるのだ…。縋ることは許されない光。それが私の生み出した幻かは知らない。
藤は熱を持った生き物。
花も藤のようであれば、私は愛することができたのかな。