花、無、世界
あなたは綺麗な花のよう。あなたはおぞましい花のよう。あなたを食べて、食べ尽くしたならば私もあなたになることができるでしょうか。
あなたは物静かで、いつも静謐な空気を纏っていた。
清潔で、清浄で、不純物は殺されてしまうようだった。あなたに、殺される。それはそれは悦びのようにも感じられて、ああ、うんざりした。反吐が出る。
あなたには音がない。
あなたには色がない。
あなたには何もない。
あなたに触れたいが、私の涙は濁っていた。私の心は、こころは――。意識が朦朧として、次第に暗い底に落ちていくような錯覚。幻覚、幻聴、この世は不可思議な夢幻。きっと、魑魅魍魎が私たちを騙しているのでしょう。
意味のない思考。
私はそのまま屋上で風に吹かれていた。誰もいない、ということはこれほど静かなんだと不思議に思った。人は人といなければ生きていけないくせに、一人になりたくて人を拒むのでしょう。きっと、無になりたいのかもしれない。
私は、あなたは0だと思った。
あなたの名前はちょうどそんな感じだったから。あなたに似合いの無の名前だなと思った。
あなたは「れい」という言葉で呼ばれる存在だ。
私はれいが好きだったのかな。嫌いだったのかな。そんなこと誰に分かるだろう。感情なんて名前をつけることは不可能だ。
けれど、私はあなたの瞳が欲しいと、そう願っていた。
それは、私の欲。
服が欲しいとか、物が欲しいとか、食べたいとか、飲みたいとか、遊びたいとか…そんなのと同じ程度の欲だ。
私はあなたを花のようだとは思っていた。手折られて花瓶にいけられた、たった一輪だけの花。死んでいるのに生きている。そんな風に感じていた。
けれど、私は花が嫌いだ。嫌悪する訳ではないが、なんだか苦手なのだ。美しいのに生きている。言葉も発しないのに確かに命を持っていて、すぐに散ってしまうから。なんだか嫌になる。
その生と死をまざまざと見せつけられるようで疲れてしまう。とても気持ちが悪いと思っていた。
自己満足の妙な潔癖かもしれない。笑える。
第一すぐ枯れてしまうのではつまらないではないか。
潔いものは美しいとされる。けれど、私はそんなものは嫌いだ。
いつまでも見苦しく「永遠」というものにしがみついていたい。私は終わりのないものを渇望していた。終わることは恐怖だ。終わってしまうくらいならば、始まらなければいいとすら思う。それならば無である方がいい。
私は無になりたい。
無になりたい。美しいものになりたい。醜いものになりたい。あれも欲しい、これも欲しい。あなたが欲しい。あの子が欲しい。あの人が欲しい。……。
私の欲には終わりがない。欲しいのにいらない、そんな愚かな自分が心底嫌になる。欲深くて、わがままな気狂いのよう。見苦しい。
自己嫌悪などというものはナルシストのすることかもしれない。(ナルシストの言葉の正確な意味など知らないが)。それでも自分を愛し、自分を嫌悪する。だからなんだというのだろう。
私は無に憧れる。
だって私は所詮愛されたいだけの人間だから。そのためなら何だってするし、何かを壊し、踏みにじることもためらいはしない。ぐずぐずと心が灰色にくすぶっている。そして、愛される価値もない。
「れい」は言う。
”無に何てなれやしない。すべては有なのだから。人は無限だよ。終わりすら見えなくて気が遠くなる”
無の名を持つくせに、なぜか無を否定する。あなたはそんな人。無限なんて泣きたくなることを言わないで欲しいのに。私は永遠を渇望するけれど、そのくせ無限の恐怖に怯えている。
それでも私の耳はその言葉が美しい音色であるかのように聴いていた。あなたの音はすべて私に幻の夢を見せる。心を壊すような夢。
いいや、あなたのすべてが夢だ。
夢はいつか覚める幻。嘘の世界だ。涙が出るように綺麗な世界。そして焼けつくように熱い魂の世界だ。
真っ黒闇だ。
あなたの皮膚、あなたの色、あなたの音、爪、睫毛、唇。心臓。心。すべてが私を破壊する。少しずつ、少しずつ、甘やかな闇で。