誕生日のシンデレラ
第2章 約束
利夫と麻衣子はちょうど1年前に離婚した。
お互いに憎み合ったわけではない。
仕事に対する価値観の相違。
キャリアカウンセラーの道を歩み始めた麻衣子と、もっと家庭に目を向けてほしかった利夫との間の気持ちのすれ違いは、いつしか埋めることのできない溝となった。
お互いがわがままを言っていることは自覚していた。
利夫がやけを起こして深酒し、夜遊びをし、麻衣子を泣かせたことも事実だ。
頭では理解できても、どうしても相手の行動が受け入れられない、そんなジレンマを乗り越えようとはせず、二人は離婚という手段を選んだ。
亜木は当時、母親を泣かす父親のことを許さなかった。
今こうして普通に話ができるようになっただけでも、利夫は時間に感謝しなければならない。
「亜木、見てごらん、江ノ島だよ」
「ふ~ん、あれが江の島なんだ。サザンの歌に出てくるやつね」
「そう。亜木がちっちゃいとき、ママと3人で遊びに来たことがあるんだ」
「えー、全然覚えてないよ。」
「お店でイカ焼きを買ったり、海の方まで行ってカニを探したり」
「その時の写真あるの?」
「うん、確か撮ったはずだよ。見たことない?」
「そう言えばパパと写ってる写真って、うちにないかもしれない」
「そうか」
江の島を過ぎ、稲村ケ崎を通過して車は逗子海岸を右手に見ながら走り続けた。
ここまで順調にきたが、所々で小さな渋滞に巻き込まれはじめた。
離婚のときにひとつだけ約束したことがあった。
それは、お互いに連絡はしない、ただし1年に一度利夫の誕生日にだけ亜木と会うことができるというものだった。
今日は利夫の42歳の誕生日。
その約束を初めて実行することができたのだ。
「パパ、お腹すいてきたよ」
「そう、もう12時半だもんな。この先にレストランがあるからもう少し待って」
「わかった。何食べようかな~」
「亜木はドリアが好きだっただろう?」
「うん、でも今はラーメンの方が好き」
「ラーメン?でも今日はせっかくレストランに行くんだから、何か違うものにしようよ」
「そうだなあ、メニュー見てから考える」
利夫は逗子の海岸を一望できるレストランの駐車場に車をとめた。
実はこのレストランも昔麻衣子とよく来たところだった。
人気のレストランではあったが、5分ほど待ってすぐに席に案内された。
亜木は、悩んだ末に結局シーフードドリアを頼んだ。
利夫も定番のハンバーグを頼み、二人は海を眺めた。
「中学校はどう?」
「楽しいよ。でもね、担任の先生がちょっと怖いの」
「どういう風に怖いの?」
「顔が」
「なーんだ。クラブ活動は?」
「吹奏楽団でクラリネット吹いてるよ」
「へー、かっこいいじゃん」
「夏休み明けに発表会があるんだ。パパも来る?」
「うーん、でもママとの約束があるから」
それ以上誘わない亜木に対し、利夫は何か期待している自分が悲しかった。
「なあ、亜木、パパとママが離婚した時の約束、知ってるだろう?」
「うん、パパのお誕生日に亜木とデートできることでしょ?つまり今日」
「そう、亜木はその、あの、今日のこと楽しみだった?」
「えへへ、楽しみじゃなかったって言ったら、パパ泣いちゃうでしょ?」
「な、何言ってるんだよ、そんなことないよ」
中学1年生の娘にからかわれ、利夫はどう反応したらよいのかわからなかった。
ただ、亜木の言ったことは、案外正しいかもしれないとも思った。
亜木はバッグから平べったい箱を取り出すと、利夫に手渡した。
「はいパパ、お誕生日おめでとう」
「ああ、ありがとう。開けるね」
「どうぞ」
「…何これ?」
「パスタ量り器。その小さい方の穴が一人前、大きい方が二人前」
「あ、この穴に束ねたパスタを通して量を量るのか」
「そうそう。一人前で大体100グラムなんだって」
スパゲティメジャーのことを、もちろん利夫は知っていた。
きっと一生懸命考えて選んでくれたであろう娘に対し、知らないふりをするのが利夫にとって、精一杯の優しさの表現だった。
「パパ、これでまたおいしいスパゲティを作ってね」
「うん、でもパパには二人前を量る必要ないしなあ」
利夫は思わず出てしまった本音をごまかすためにコップの水を一口飲んだ。
そして、あふれてきそうな涙を必死にこらえながら、静かに光る海を眺めた。