『喧嘩百景』第6話成瀬薫VS緒方竜
竜は成瀬薫のこういうのらりくらりしたところが気に入らなかった。他のメンバーの手前、先輩として立ててはいたが、薫の幼なじみの女たちならともかく、あの日栄一賀までが大人しく彼に従っているのがどうしても解(げ)せなかった。
「あんたほんまに腑抜けやな」
「ああ、腑抜けだよ」
竜がいくら挑発しても薫がそれにのった例(ため)しはない。その点では薫の忍耐強さは驚異的だった。
「なぁ、何でや?」
竜はカウンターに肘をついて上目遣いに薫を見上げた。
「いいじゃないか。一賀に無理させなきゃ、お前に敵(かな)う奴はいないんだ。それでさ」
薫は竜の目の前にアップルパイの皿を置いて、「ああ――羅牙(らいが)と美希ちゃんは別だぞ」と、付け加えた。
「いーやーや。あんたらを知っとる奴らの誰がそないに思うねん。俺はええ笑い者(もん)になるだけやないか」
竜は皿を引いて、フォークを銜(くわ)えた。
彼が甘党なのを知っている薫は、いつも頼まれもしないうちからケーキを出してやっていた。
「そんなことないって。俺は臆病者で通(とお)ってるんだから」
薫は自分で淹れたコーヒーを注(つ)いで口に運んだ。
「その臆病者が龍騎兵を壊滅に追い込んだんか?」
「人聞きの悪いこと言うなよ。龍騎兵は解散したんだ」
竜は膨れっ面でアップルパイにかじりついた。
一高龍騎兵には総長の代替わりの時に、次期総長候補者を卒業生が私刑(リンチ)にかけるという伝統があった。噂では、それまで大して目立った存在ではなかった成瀬薫が次期総長に指名されて、私刑にかけられた際、先輩を全員叩きのめしただけではなく、当時最大の勢力を誇っていた龍騎兵に解散止むなしの損害を与えたということになっていた。
当時一年生だった今の三年生たちに問いただしても、薫と、一賀を怖れて詳しいことを教えようとはしないので、彼らが薫に何をしたのかは判らなかった。
「本気になるんが何でそないに難しいんや」
パイで口を一杯にしたまま竜は呟いた。
★ ★
「日栄さんと成瀬さんですか?」
緒方竜に図書館の視聴覚室に呼び出された相原裕紀(あいはらひろのり)と相原浩己(ひろき)は、彼の質問にちょいと首を傾げて、
「成瀬さんでしょ」
と答えた。
作品名:『喧嘩百景』第6話成瀬薫VS緒方竜 作家名:井沢さと