三剣の邂逅
2
一瞬、何が起こったのか、その場の誰もわからなかった。
国王が急に苦しみ出したと思ったら、何かがものすごいスピードで視界を横切った。
そして、次の瞬間。目の前に見知らぬ人物が現れたのだ。
しかもその人物は国王を羽交い絞めにし、回りになんびとたりとも近づけない構えだ。
突然の事態に、牢内の三人ばかりか、カーターまでもが息を呑んで固まっている。
四人の視線を一斉に受けている人物は、まるで国王直属の手の者のように、頭から足の先まで黒いローブを纏っていた。
最初、護衛が裏切ったのかとさえ思ったのだが、よく見るとシルエットはかなり細身だ。だが、見かけによらず力はあるようで、王の体をしっかりと抑えた腕は緩みそうにない。
「く、くそっ、一体誰……だ……」
息も絶え絶えに、それでも王は必死で自分を捕らえている人物のローブをはぎとった。
まるで、時がゆっくり流れるように、漆黒のローブが緩やかな線を描いて舞い落ちる。
黒幕の中から現れた人物を見て、ライアは口元を覆った。
「うそっ!」
大地の土色を写し取ったような赤茶色の髪が、美しいウェーブを描いて波打ち、煌々と輝く瞳は、琥珀を埋め込んだように薄く澄んでいる。
ライアは、この髪を、この瞳を、この人を、誰よりもよく知っていた。
「母さん……」
ライアの口元から漏れた声に、牢内の全員が、一斉にライアを見た。
「母さん、だよね……」
確信を持ちつつも、ライアは尋ねずにいられなかった。
それほど、ライアの見知っている母親と今目の前にいる女性には、差がありすぎたのだ。
ライアの母、フレシア=フレノールは、娘の目からみても美しい。優しい瞳、優雅な物腰の、穏やかな、花のような女性だ。いつも微笑みを絶やさず、ふんわりとした雰囲気に包まれ、父と似合いだと、子供心に思っていたものだ。
母は、ライアの憧れだった。
しかし、今目の前にいる母親は、普段はきっちりと結い上げている髪を無造作にほどき、自然のままにしている。服装も、見慣れたクリーム色のブラウスに、臙脂のロングスカートではない。
まるで男性のような長いズボン、それも足首のわずかな広がりを、黒い皮紐のようなものできつく縛っている。上半身も首元まである異国風の上着に、何よりも目立つのは、胸元から腰下までを覆っている、細かい金属を繋ぎ合わせたような胸当だ。まるで本で見た鎧のような勇ましい格好だった。顔にも化粧気がなく、いつもさしている紅のない唇と、敵を射抜くような目で覇気さえ漂わせている面差しは、まるで別人のようだ。
「その格好……まさか、アヤニオ人か」
クローブが驚きを口にした。
「アヤニオ人?」
ライアが鸚鵡返しに尋ねた。
「ああ。この国の隣、カラモアの一部族だ。確か自国の内戦で住んでいた北方の山を追われ、大部分が国外にまで流れたと聞いたことがある。……じゃあ、まさかライアの母親は」
「そう」
フレシアが初めて口を開いた。
「あたしは、隣国、カラモアの北に位置するホース山をまとめていたアヤニオの部族長、オルウェスの娘、イーフェイ」
聞いたことのないような荒い口調で、聞いたことのない名を名乗る母親を、ライアは息をするのも忘れて見つめた。
「地の利を利用した隠れ里を作るという一方的な理由で山を追われたあたしら一族は、生きるため、皆ばらばらに散っていった。だけど、途中戦に巻き込まれたり、異民族の差別を受けたりで、父をはじめ、あたしと共に逃げた多くの仲間が命を落とした。そしてこの国、カルーチアになんとか辿り着いた時には、あたしと幼馴染のユーシーだけになってた」
フレシアは、王を捉えた腕を全く緩めない。が、どうやら知られざる過去を語る気配だ。
その瞳は、まっすぐライアへと向けられている。
「命からがら逃げたものの、その頃まだこの国は移民を受け入れていなくてね、住む所も、食べる物も、仕事も見つからずに、あたしたちは森の中に隠れるようにして、ただ朽ちていくのを待つしかなかった」
険しかった表情が、わずかに緩んだ。
「そんな時、森の中に倒れていたあたしらを助け、匿ってくれた人と出会った。彼らはあたしらを隣国の移民だと知っても、お咎め覚悟で匿ってくれた。そして、王様に頼んでみてくれるなんて、夢みたいなことを言ったのよ」
フレシアの瞳が優しげに揺らいだ。
「しばらくして、本当に王は移民受け入れの法を作ってくれて、あたしらは堂々と町中を歩けるようになった。この国に受け入れられ、あたしはクラークを、ユーシーはイアンを愛するようになり、彼らもあたしらを愛してくれた。そして、求婚されたその日を境に、あたしはフレシア、ユーシーはアンとその名を変え、この国の人間になることに決めた」
クリスが驚いてフレシアを見た。
「母さんも移民だったのか」
軽く頷くと、フレシアは話を続ける。
「それからあたしは、少しでもクラークに見合う女になろうと努力した。彼はそのままでいいと言ってくれたけど、あたしがそうなりかった。それに、彼の愛に包まれた穏やかで優しい生活を送っていると、自然と心が穏やかになっていった。そのうち、どっちにも子供が生まれて、幸せで幸せで。毎日、この幸せを与えてくれた国王と夫に感謝することを忘れなかった。そうして時が流れ続けていくことを信じて疑わなかった……あの日までは」
フレシアの声のトーンが俄に下がり、王を抑える腕に力が入った。
「そう……お前たちがすべてを奪った。やっと掴んだ幸せを、お前たちが!」
怒りに満ちたフレシアに、カーターが険しい顔で問いかけた。
「あなたは、一体どこまで知っているのですか?」
「すべてよ」
「すべて?」
カーターとライアが同時に叫んだ。
「すべてって、何故?」
ライアが驚いて母を見つめた。
当時ジュスイがやっきになって調べ、また今ライアたちが必死になって調べても、事件の全貌は想像の域を越えることがなかった。それを、何故当時の母が知っていたのか。
「あたしも最初は知らなかった。突然夫が国王暗殺の犯人だって聞かされても、そんなわけがないと信じることと、こんな運命を与えた神を恨むことぐらいしかできなかった」
「では、どうして?」
カーターが先を促した。
「国を追放されてまだ間もない頃、一人の兵士があたしを訪ねてやってきた。彼は、あの事件の時駆けつけた十人の一人で、ホワイト=ポーラーと名乗った」
「ホワイト=ポーラー……」
ライアとクローブは、同時に顔を見合わせた。記録書にあった名前だ。確か、事件直後に自殺している。
「彼は、事件に加わったものの、罪の意識に耐えられなくなってあたしにすべてを伝えに来た。そしてあたしは、事件の黒幕が王弟とカーターであることを知った」
「では、何故、その時私たちを討ちに来なかったのです?」
眉をひそめるカーターを、フレシアは激しく睨んだ。
「殺そうと思った。すぐにでも! だけど、あの時あたしが復讐を実行に移して子供たちの前から姿を消し、二人だけで生きていかせるには、まだ幼かった。子供には、父親がいなくなっても、普通の幸せを与えてやりたかった。あたしさえ我慢すれば。そう自分に強く言い聞かせた。それに……」
一瞬、何が起こったのか、その場の誰もわからなかった。
国王が急に苦しみ出したと思ったら、何かがものすごいスピードで視界を横切った。
そして、次の瞬間。目の前に見知らぬ人物が現れたのだ。
しかもその人物は国王を羽交い絞めにし、回りになんびとたりとも近づけない構えだ。
突然の事態に、牢内の三人ばかりか、カーターまでもが息を呑んで固まっている。
四人の視線を一斉に受けている人物は、まるで国王直属の手の者のように、頭から足の先まで黒いローブを纏っていた。
最初、護衛が裏切ったのかとさえ思ったのだが、よく見るとシルエットはかなり細身だ。だが、見かけによらず力はあるようで、王の体をしっかりと抑えた腕は緩みそうにない。
「く、くそっ、一体誰……だ……」
息も絶え絶えに、それでも王は必死で自分を捕らえている人物のローブをはぎとった。
まるで、時がゆっくり流れるように、漆黒のローブが緩やかな線を描いて舞い落ちる。
黒幕の中から現れた人物を見て、ライアは口元を覆った。
「うそっ!」
大地の土色を写し取ったような赤茶色の髪が、美しいウェーブを描いて波打ち、煌々と輝く瞳は、琥珀を埋め込んだように薄く澄んでいる。
ライアは、この髪を、この瞳を、この人を、誰よりもよく知っていた。
「母さん……」
ライアの口元から漏れた声に、牢内の全員が、一斉にライアを見た。
「母さん、だよね……」
確信を持ちつつも、ライアは尋ねずにいられなかった。
それほど、ライアの見知っている母親と今目の前にいる女性には、差がありすぎたのだ。
ライアの母、フレシア=フレノールは、娘の目からみても美しい。優しい瞳、優雅な物腰の、穏やかな、花のような女性だ。いつも微笑みを絶やさず、ふんわりとした雰囲気に包まれ、父と似合いだと、子供心に思っていたものだ。
母は、ライアの憧れだった。
しかし、今目の前にいる母親は、普段はきっちりと結い上げている髪を無造作にほどき、自然のままにしている。服装も、見慣れたクリーム色のブラウスに、臙脂のロングスカートではない。
まるで男性のような長いズボン、それも足首のわずかな広がりを、黒い皮紐のようなものできつく縛っている。上半身も首元まである異国風の上着に、何よりも目立つのは、胸元から腰下までを覆っている、細かい金属を繋ぎ合わせたような胸当だ。まるで本で見た鎧のような勇ましい格好だった。顔にも化粧気がなく、いつもさしている紅のない唇と、敵を射抜くような目で覇気さえ漂わせている面差しは、まるで別人のようだ。
「その格好……まさか、アヤニオ人か」
クローブが驚きを口にした。
「アヤニオ人?」
ライアが鸚鵡返しに尋ねた。
「ああ。この国の隣、カラモアの一部族だ。確か自国の内戦で住んでいた北方の山を追われ、大部分が国外にまで流れたと聞いたことがある。……じゃあ、まさかライアの母親は」
「そう」
フレシアが初めて口を開いた。
「あたしは、隣国、カラモアの北に位置するホース山をまとめていたアヤニオの部族長、オルウェスの娘、イーフェイ」
聞いたことのないような荒い口調で、聞いたことのない名を名乗る母親を、ライアは息をするのも忘れて見つめた。
「地の利を利用した隠れ里を作るという一方的な理由で山を追われたあたしら一族は、生きるため、皆ばらばらに散っていった。だけど、途中戦に巻き込まれたり、異民族の差別を受けたりで、父をはじめ、あたしと共に逃げた多くの仲間が命を落とした。そしてこの国、カルーチアになんとか辿り着いた時には、あたしと幼馴染のユーシーだけになってた」
フレシアは、王を捉えた腕を全く緩めない。が、どうやら知られざる過去を語る気配だ。
その瞳は、まっすぐライアへと向けられている。
「命からがら逃げたものの、その頃まだこの国は移民を受け入れていなくてね、住む所も、食べる物も、仕事も見つからずに、あたしたちは森の中に隠れるようにして、ただ朽ちていくのを待つしかなかった」
険しかった表情が、わずかに緩んだ。
「そんな時、森の中に倒れていたあたしらを助け、匿ってくれた人と出会った。彼らはあたしらを隣国の移民だと知っても、お咎め覚悟で匿ってくれた。そして、王様に頼んでみてくれるなんて、夢みたいなことを言ったのよ」
フレシアの瞳が優しげに揺らいだ。
「しばらくして、本当に王は移民受け入れの法を作ってくれて、あたしらは堂々と町中を歩けるようになった。この国に受け入れられ、あたしはクラークを、ユーシーはイアンを愛するようになり、彼らもあたしらを愛してくれた。そして、求婚されたその日を境に、あたしはフレシア、ユーシーはアンとその名を変え、この国の人間になることに決めた」
クリスが驚いてフレシアを見た。
「母さんも移民だったのか」
軽く頷くと、フレシアは話を続ける。
「それからあたしは、少しでもクラークに見合う女になろうと努力した。彼はそのままでいいと言ってくれたけど、あたしがそうなりかった。それに、彼の愛に包まれた穏やかで優しい生活を送っていると、自然と心が穏やかになっていった。そのうち、どっちにも子供が生まれて、幸せで幸せで。毎日、この幸せを与えてくれた国王と夫に感謝することを忘れなかった。そうして時が流れ続けていくことを信じて疑わなかった……あの日までは」
フレシアの声のトーンが俄に下がり、王を抑える腕に力が入った。
「そう……お前たちがすべてを奪った。やっと掴んだ幸せを、お前たちが!」
怒りに満ちたフレシアに、カーターが険しい顔で問いかけた。
「あなたは、一体どこまで知っているのですか?」
「すべてよ」
「すべて?」
カーターとライアが同時に叫んだ。
「すべてって、何故?」
ライアが驚いて母を見つめた。
当時ジュスイがやっきになって調べ、また今ライアたちが必死になって調べても、事件の全貌は想像の域を越えることがなかった。それを、何故当時の母が知っていたのか。
「あたしも最初は知らなかった。突然夫が国王暗殺の犯人だって聞かされても、そんなわけがないと信じることと、こんな運命を与えた神を恨むことぐらいしかできなかった」
「では、どうして?」
カーターが先を促した。
「国を追放されてまだ間もない頃、一人の兵士があたしを訪ねてやってきた。彼は、あの事件の時駆けつけた十人の一人で、ホワイト=ポーラーと名乗った」
「ホワイト=ポーラー……」
ライアとクローブは、同時に顔を見合わせた。記録書にあった名前だ。確か、事件直後に自殺している。
「彼は、事件に加わったものの、罪の意識に耐えられなくなってあたしにすべてを伝えに来た。そしてあたしは、事件の黒幕が王弟とカーターであることを知った」
「では、何故、その時私たちを討ちに来なかったのです?」
眉をひそめるカーターを、フレシアは激しく睨んだ。
「殺そうと思った。すぐにでも! だけど、あの時あたしが復讐を実行に移して子供たちの前から姿を消し、二人だけで生きていかせるには、まだ幼かった。子供には、父親がいなくなっても、普通の幸せを与えてやりたかった。あたしさえ我慢すれば。そう自分に強く言い聞かせた。それに……」