狂言誘拐
「ぼくも迷いました。岩手の、人材派遣会社に雇われることになったんですけどね」
「へえ。なんとなく、漫才やってない?今」
中野は苛立ちながら小野寺のグラスにビールを注いだ。
「ハローワークへ行ったら、就職口はそこだけだったので、仕方なく入社しました。そうしたら驚いたことに、自動車会社の工場に配属されたんですよ。それも、島根県です」
「島根と云ったら、韓国の手前の?」
「遠いところでした。その直後にあの震災で、岩手の会社は消滅しました」
「島根とは、随分遠いところへ行ったもんだね。そうか。ヒッチハイクがそこで出てくるんだ」
「岩手に戻る前に鎌倉へ行って、車を取り戻すことにしました」
「クビの原因になったパチンコでは随分稼いだみたいだし、亜矢子さんからも車のレンタル料を受け取った筈だな」
「あのときの金は全部親に渡しました。両親は随分喜んでくれました。それが、最後の親孝行になってしまいました」
小野寺は今にも泣きだしそうな顔で云う。
震災のとき、小野寺は岩手の人材派遣会社から、山陰の島根に派遣されたばかりだった。亜矢子に車を貸してあることを思い出した小野寺は、震災の半月後に亜矢子の携帯電話に漸く連絡することができた。彼が就職した岩手の会社には、地震後連絡がとれなくなっていた。
「あの震災では、東京も随分揺れたでしょうね。島根は全く揺れなかったんですよ。
だから、あの派遣会社がなくなったことを知らないでいました」