狂言誘拐
「あれ?どこかで見た顔ですね」
「小野寺です。小野寺慎一です。よろしくお願いします」
「ああ、小野寺さん、でしたね」
その男は中野の会社の新しい乗務員になったらしい。
「栗原亜矢子さんに車を貸したやつです」
「そうでしたね。ここに入社したんですか。その前はどこに?」
「ヒッチハイクをしていました」
「おたくも見えない話をするねえ。私は明日が公休だけど、そちらは?」
「同じローテーションみたいですね」
「そうかぁ。じゃあ、今夜、生還祝いをしよう」
「生還祝いって?中野さん、死んだんですか?」
「真面目な顔して、そのことばのきつさは前代未聞だよ」
「ああ、ぼくは仙台じゃなくて釜石です」
「仙台じゃなくて、『前代』って云ったんだけど……」
*
場末の居酒屋の奥に、ふたりのタクシー乗務員がいる。ふたりとも不景気な顔をしているのは、徹夜明けで疲れているのだ。
「前の会社をクビになったとき、ぼくは車を貸したお金で生まれ故郷の岩手に戻ったんです。今考えると、あの車は貸しても貸さなくても、津波に流される運命だったんですね」
「そこで話が切れると、どういう方向へ話を持って行けばいいのか、迷うね」