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狂言誘拐

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 あの大きなバッグの中に入れてあったもうひとつのバッグだと、中野は気付いた。あの男は、だから空のバッグを持って帰宅したのである。この中は現金ではないかと、中野は推測した。自分あてのメッセージを見た以上、忘れ物として会社へ持って行く必要はないと思い、彼はアパートに寄ってふたつの荷物を部屋の中に運び入れた。
 彼は中から出入口に鍵をかけ、ベッドの上に置いたバッグを開けた。その中身は想像通りどのくらいか見当もつかない大量の札束で、全て一万円札のようだった。
 その時点から落ち付かない気持ちになった。大金の元の持ち主は栗原亜矢子か、またはその夫ということになるだろう。あの、狂言誘拐は天災のために失敗だったのだから、中野には報酬を受け取る権利はない。ひと月近くも経つともう、その件は頭の中の片隅に追いやられていた。ほぼおわったことだと、彼は思っていた。
 その翌日の公休日に、中野は大仕事をした。
 早朝の駐車場で、中野は洗車していた。放射能が心配だが、水道の水が温かくなったことがありがたい。あちらこちらで桜が満開に近いことが報じられていた。もう、四月になったのだ。
 中野は亜矢子の電話番号は知らなかったが、住所は知っていた。彼女に渡したいものがあるのだが、突然あの豪邸へ押しかけて行っても、恐らく門前払いということになるだろう。やはり、郵送することにしよう。それが結論だった。
 そのとき帰庫したばかりの、ほかのタクシーから出て来た中年男を見ると、中野はまるで幽霊を見るように驚かされた。その男も洗車を始めたのだが、中野が声をかけるべきか迷っていると、向こうから声をかけて来た。
「おはようございます。稼げましたか?」
 
作品名:狂言誘拐 作家名:マナーモード