狂言誘拐
「今日は、金曜日よね。明日はどこかの温泉に行きたかったの」
亜矢子は泣きながら云う。
「温泉はいいですね。でも……」
「でも、何?」
「二億円あればどこにでも行けたなぁ、なんて……」
「もう、その話はなしね」
「どうしてですか?」
「優奈はね、多分この近くの病院に入院していたからよ。もう、天国へ流されて行ったわ」
「大丈夫です。津波に強い、立派な病院でしょうからね」
そんな気休めを云いながら、中野は絶望的な気持ちになっていた。
「おらいはどごさ行ったかな。はかないもんだっちゃ」
島野は家がなくなったことを改めて嘆いた。
「こんだらばんげに……」
大山の妻は何か云いかけて口をつぐんだ。
島野の妻は息子に云う。
「おめえはかすけだがら毛布さうんときろ……」
大きな余震が何度もあった。随分暗くなってきた。底冷えがする。
「腹へってきた」と島野の息子。
「おめぇはいっつもがすまげなんだがらぁ」
そう云ったのは母だった。