狂言誘拐
奇妙な依頼
帰宅して間もない午前八時前だった。彼は安物のベッドに腰掛けている。寝酒のウィスキーの水割りを飲んだあとだった。飲まないと眠れない、などということはない。習慣になってしまっているだけだった。僅かな時間だが、軽く飲んで自作小説の文章を読む。そうすると訂正すべきところを発見する。何気なく聞き流していた昨日のラジオからのギャグを憶えていて、それを小説の登場人物に云わせてみることもある。
ネットで改めて語句の意味を調べてみると、そのことばを誤解していたことに気づいたりする。「眼から鱗」と、ことばが浮かび、次いで「眼からナマコ」と、昨日のラジオの聴取者が笑いながら云っていたのを思い出した。すりおろした生姜がナマコには凄く合うと云っていたのは、声の感じが三十代半ばといった雰囲気の主婦だった。
横になろうかと思い始めたころ、携帯電話が聞き覚えのある着信音を響かせた。聞こえて来た声は女性のものだった。
「もしもし、運転手さんですね?」
「はい。タクシーのお客様でしょうか」
「そうです。昨夜はありがとうございました。お休みだったかしら、驚かせてごめんなさいね」
中野は驚いていた。昨夜の最後の乗客からに違いないのだが、意外に若い声だと思った。
「こちらこそ……私の電話番号は会社に問い合わせたんですね?」