狂言誘拐
「いいえ。今あなたがお使いの携帯電話はわたしのです。だから……」
「えっ?これは、お、お客様の携帯ですか?」
中野の驚きは並大抵ではなかった。二日前に発売されたばかりの新機種だったこともあり、自分のものだと信じ切っていた。
(買ったばかりだから、それでストラップがついてないのか)
「タクシーに忘れてしまいましたの」
彼は運転席のうしろの床に落ちている黒いものを、洗車するときに発見した。黒いフロアマットの上の黒い携帯電話は、夜間ならば見落としても仕方がなかった。機種もそうだが、中野のものと色まで同じだった。それで、不思議に思いながらも、自分のものだと思い込んで持ち帰ったのだった。
「失礼しました。急いで鎌倉までお届けしましょう」
「ありがとう。それを持って横浜駅まで来てくださるかしら」
「横浜駅ですね。はい、わかりました。今すぐ横浜駅へ行きましょう。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「栗原亜矢子と申します。でも、今すぐと云われても……じゃあ、午後二時にお会いしましょう」
珍しく中野は明日と明後日が公休である。少しくらいは無理をしようと腹をくくった。指定された店は地下街の寿司屋である。そこは家電量販店のすぐ近くらしい。
「栗原さんですね。十四時に、極力、遅れないように行きます」
「じゃあ、お願いしますね」
「ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」