狂言誘拐
中野と亜矢子も車から出た。間もなく初老の男は老いた母親を連れて戻った。
「母は避難の準備をしていました。大事な書類を持って、私の車で避難します。ありがとうございました」
そのとき、心配顔で老婆が云った。
「お向かいの大山さんの旦那さんは身体が不自由だし、息子さんはどこかでまだ仕事中だから、避難できないよ。何とか手伝ってやらないと」
「そうか。大山さんを避難させないとな」
五人でぞろぞろと、「大山」と立派な表札のある大きな家へ様子を見に行った。今は寝たきりとなってしまった父が起こした運送会社を、息子が引き継いでいるという家だ。
「昭和三十五年の津波のときは床上浸水した程度でした。上の階に避難すれば大丈夫ですよ」
そう云う大山の妻は、かなりの高齢者だ。
「旦那さんは動けそうかな?」
「だめだめ。石ころとおんなじよ。でも、今二階から見たら驚いたわ。海が真っ黒だったから。養殖のわかめかと思ったら、海の底の岩よ。水が引いちゃったのよ」
「じゃあ、特大の津波がくるぞ。高台には避難できないから、三階まで上げてもらえませんか!」
奥からそう訴えたのは、意外に大きな老人の声だった。
「どこまで水がくるかは、きてみないとわかりませんよ」
島野が慌てて靴を脱ぎ、上がり込んで云った。中野たちも靴を脱いで奥へ行った。