狂言誘拐
「ねえ。もうすぐ午後三時に近い時刻よ。一番近い海岸からボートで海に出ましょう。ヘリが来ちゃうわ」
苛立っている亜矢子の姿は、中野にとって少しも魅力的ではなかった。それどころではない。信じられないことに、中野は彼女から肘鉄を見まわれた。
「そう云ってもね、ボートを貸してくれるところがあるかどうかが問題です」
「だったら、最初からうちのクルーザーを出せばよかったわ」
「今になってそんなことを云ってもねえ」
相変わらず信号待ちをしていると、緊急地震情報のいやな音階がラジオから聞こえた。岩手、宮城、福島に大地震だと云っている。
「地震いや!」
亜矢子が慌てた顔で叫ぶ。間もなく、突然のめまいのように、かなりの縦揺れが始まり、その後ゆっくりと、しかし大きく横に揺れ始めた。時計の針は十四時四十六分である。
十四時にはボートを借りて海に出る予定だった。中野のぎっくり腰と途中の渋滞が予定を狂わせた。しかも、大地震だ。徐々に揺れ幅が大きくなるのを中野は感じる。その揺れは極めて不安にさせるものだ。実にゆったりと、まるでブランコのような、しかし、凄く大きな揺れなのだ。電線がめちゃくちゃに揺れている。すぐ横にある建物を見ると、外部の鉄骨階段が、早くも十センチくらいは歪んでいるところがある。瓦やガラスが落ちて割れる音が聞こえてくる。いつの間にか、地鳴りというのだろうか、包み込むような重い轟きに満たされていた。全ての建物が倒壊する勢いだと思った。
「凄い揺れ方だな」
「怖いよ!死んじゃうよ!」