狂言誘拐
中野は急ブレーキで車を停めた。自転車に追突され、若者が転倒した。中野は慌てて出て行って、若者の眼鏡を拾った。それを持って行くと、背の高い若者は受け取りながら云った。
「よそ見してました。ごめんなさい。大丈夫です。警察なんか、呼ばないでください」
「怪我してませんか?」
「自転車が全然無事だったから、いいです。どうも」
「よくみてください。新しいのと交換しますか?」
「輸入したものですから、日本では手に入りません。この自転車、百万もしたんです。じゃあ」
若者は行ってしまった。集まっていた通行人たちも四散して行った。
「百万だって!自転車がねぇ」
「怪我がなくてよかったわね」
「そうですよ。さて、ポテトチップを買いに行きますか」
「はい。行きましょう」
店の奥に声をかけるというのが、中野は苦手だった。当然大きな声を出さなければならないのだが、そういうときに限って大きな声が出ない。亜矢子の声を聞いて初めて主人は店頭に現れた。中野とほぼ同年配の痩せた男だった。
「緩衝材で通称『ポテトチップ』というのがありますよね」
「あれは、品切れです」