狂言誘拐
「雪が降ってる最中に描いたんです。寒くってね。手はかじかんで、きつい六時間でした。それでも何とかでき上がりましたよ。苦闘の末にね……」
中野は今にも泣きだしそうな顔になった。中野は愛する女と共に雪景色を描いた。それを思い出しながら、凍りついたように彼は動かない。亜矢子は中野の傍に動いた。
「どうしたの?とても、哀しいことなのね。いいわよ。無理して云わなくても」
「……突風に……無慈悲な突風に、キャンバスを飛ばされて、それが谷底に消えて行きましたよ」
あのとき、里子のキャンバスも同時に突風に奪われたのだった。中野はそれを亜矢子に云えない。云うとどうなるというものでもないのだが、なぜか云いたくない。
「幻の名作になっちゃったのね。ご愁傷さま」
亜矢子も涙をこぼしそうになっている。中野は、亜矢子の細い身体を抱いた。そして、口づけをした。谷底に落ちて行く二枚のキャンバスの映像が、脳裏に蘇った。