狂言誘拐
「へえ。私の顔なんかを見ていたとは、意外でした」
「あっ!冷蔵庫にビールが入ってたわ」
亜矢子はグラスもそこから出して注いでくれた。中野は一気に飲み干した
「美女のお酌が、今夜もビールを美味くする。タンメンはどうですか?」
「……美味しいわ。でも、明日か明後日には、あなたと、お別れなのね」
「電話したらジェットヘリで飛んできて、バーンと現金を投下して、一件落着ですからね。出前より早いかも知れません」
「二億円が入る発砲スチロールの箱ってあるのかしら」
海に浮かぶボートの近くの海上に投下させるのだから、沈んでしまっては困る。
「梱包材量の店に行けばすぐに手に入ると思いますよ」
獲らぬ狸の皮算用ではないが、回収した現金をボートに引き上げるときのことを想うと
中野は不安になる。以前、ボート釣りをしていると重さ十キロ以上の蛸がかかり、ボートに上げようとしたものの、断念したことがあった。蛸は潮を吹いて抵抗した。非常に重く、引き上げようとするとボートは大きく傾いた。午後の波のせいでボートの揺れは非常に大きくなり、転覆しそうな恐怖もあった。中野はやむを得ず糸を切った。
その話を亜矢子に聞かせた。
「釣りのお話が多いのね。油絵の苦労話は?」
「油絵ですか……真冬にね、雪景色を描きに、出かけたことがあります。高尾駅六時五十分発の松本行き普通列車。これは急行なんかより全然速いんです。速度がです」
「雪景色!すてきじゃない」
亜矢子は独特の眩いような笑顔を咲かせた。中野はそのとき、同棲していた里子を連れて行った。彼女も油彩で風景を、かなり達者に描く女だった。