狂言誘拐
「ビールだけにするわ。チーズがあったでしょ?」
「いろいろありますよ。でも、何か食事をしてください。その前に入浴ですか?」
「そうね。お風呂に入るわ」
亜矢子が浴室に消えると、中野は畳に腰をおろし、車から持って来た関東以北の地図を開いた。下から埼玉県、群馬県、栃木県、福島県、宮城県、そして、岩手県。
都市名は、さいたま市、久喜市、館林市、佐野市、宇都宮市、矢板市、白河市、郡山市、白石市、仙台市、栗原市、一関市、花巻市、盛岡市といったところに、少しは馴染んだものを感じる。
それらの地名の中には、中野が会社勤めをしていた頃に、出張で赴いたところが何箇所かあった。勿論、通過したしただけのところが大半だったのだが。
真夏だった。新幹線の車窓の奥に走る広大な田園風景の、緑の余りの鮮やかさが非現実的だった。いつまでも心を奪われていると、眼も心も緑色に染まってしまいそうな気がした。
もっと若いころ、上野から仙台まで鈍行列車に揺られたことがある。眺める旅ではなく、感じる旅をしたかった。上野駅でカレーライスを食べてから、缶ビールを買って夜行列車に乗車すると、帰宅する通勤客で満員だった。夜が更けるにつれ、乗客は減る一方だった。名前の面白さに興味を覚え、郡山駅で「ズーズー弁」という名称の駅弁を買った。
仙台の手前の駅から通学の高校生たちが大勢乗車してきたのが、朝の七時過ぎだっただろうか。中野は騒々しさに起こされたのだった。