狂言誘拐
亜矢子も荷物を置きながら、
「でもねえ、今は……」
確かに、それどころではないという気持ちではある。
「いつか、借りてきて観ますよ。主題歌がよかったなぁ」
「いい曲ね『雨に濡れても』だったわよね」
廊下に出て突きあたりが浴室とトイレ。その手前、廊下の横に狭い屋内庭園があり、細い竹が植えられている。そこから水琴窟の音が聞こえた。
「グラミー賞を受賞した筈です。英語で歌えますよ」
「そう?じゃあ、どうぞ」
「こんな寂しい水琴窟の伴奏じゃ、合わないな。カラオケがあれば歌いますよ」
「じゃあ、今度、カラオケ行きましょ」
畳の部屋に戻った。座卓の上にメニューが置いてあることに、中野は気付いた。
「まあ、それは実現しないでしょう。あっ。出前をしてくれるみたいですね」
「今回のことが成功したら、それっきりね。二度と会わないのね」
亜矢子は中野が云ったことには取り合わず、寂しそうに云った。
「違う形で出会いたかったと、思いますね。せめて十年でも、逆戻りしてから」
「十三年前がいいわ」
「結婚直前ですか?……さて、何をごちそうしてもらおうかな」
「食欲ないわ。清さんだけお食事してください」
「だめですよ。明日が正念場になるかも知れませんからね」