狂言誘拐
せめて味噌汁にだしの味を感じられれば随分違うのに、と思う。心が込められていないと思った。中野は一度、インスタントのだしを、持参して行ったことがある。だが、小心者の彼はそれを味噌汁の中に入れることはできなかった。周囲からの視線を怖れるあまり、心臓が破裂しそうな不安にさいなまれた。
J・ポップのBGMがうるさい。ほんとうにうるさいだけの音楽だと思う。昔はアップテンポの曲にもこんなうるささは感じなかった。歳をとったせいもあるのだろうが、最近の音楽には、やはり、心が込められていないと思う。尾崎豊も、村下孝蔵も早く死んで行った。中野が共に暮らしたただひとりの女も、早く逝ってしまった。
春の陽射しの中を、ずっと走り続けていた。幾つもの橋を渡り、切通しを抜け、トンネルに入っては出る。野菜畑の中を走り、踏切を渡る。
公営ギャンブルの施設の近くには風体のよろしくない、目つきの悪い男たちが、どんな田舎にでもいる。人は見かけによらない。彼らほどひとのいい連中はいない。彼らは非常に親切で気さくなのだ。但し、彼らは決して幸福ではない。そして、社会の底辺をしっかりと支えている存在でもあるのだ。
「こういうところだけは入りたくないわ。なんだか寒気がする」
「でもね、意外に美味しいものが売られているんです。牛丼なんかはこういうところのが一番美味いと思いますよ。あと、絶品の焼き鳥とかね、いろいろあるんです」
「もうけたことあるの?」
「百円玉一個が何百倍になったことがありますよ。但し続かない。大きくもうかったらさっさと逃げ出すべきです」
「中野さんはいろいろ経験豊富みたいね」